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身の内に海を飼う 【カニササレアヤコ コラム 直線・曲線・斜め線】

 体が海を求めていますよね、という話をときどきする。大抵、海の街で育った人と。

 詩人の水沢なおさんは沼津の育ち。昨年ラジオでお話する機会があった。水沢さんの文章はどこか水の中に浸っているような感覚があり、原風景として沼津の海があるんですか、と聞いたらやっぱりそうらしい。沼津の海は深いですよね、深海の生き物が沢山いますね、という話をした。ぽつりぽつりとゆっくり話す言葉が、放たれた途端、深い海に沈んでいってしまうようで、ラジオなのにとても静かな時間が流れた。

 先日、パリでエクアドル人の青年と知り合った。生演奏が売りのジャズバーで、時間になっても演奏が始まらず、1時間も経ってしまったので私もその人も痺れを切らして読んでいた本を置き、いつ始まるんだろうね、本当にやるのかな、とお喋りで時間を潰したのだった。

 仕事を聞くと、感染症の研究者をしているらしい。まだ20代なのにカナダやイギリスでキャリアを積み、今はパリで働いているという。

 エクアドルの海の街で育ったから、夏は休暇を取って故郷の海へ泳ぎに帰りたい。しかしその時期は大体アジアでエピデミック(流行病)が起きるから、現地に派遣されて数週間がかりで感染を抑え込んでいるうちに、夏が終わってしまうのだという。すごいね、世界を救ってるんだねと言うと「そうかもね」とおどけて笑った。

 出会った翌日、ランチを作ってくれると言うので研究者用のアパートにお邪魔した。昔ガストロノミーレストランで働いていたそうで手際がいいのだが、何しろ踊る。米を煮る間、野菜を炒める間、とにかく隙があれば南米の音楽で爆踊りするので出来上がる頃には夕方になっていた。

筆者の故郷にて。江ノ島から見た富士山

 踊っている時の笑顔が弾けるようにエネルギッシュで、私とは違う海、違う太陽を見て育ったのだなと実感した。この人の中にある海はきっととても青くて、太陽がすごく眩しい。私が育った湘南の、乾いた海草と日焼け止めのにおいのする砂鉄混じりのビーチとは全然違う海。

 「東京で死んだら渡り鳥になり故郷の海でもう一度死ぬ」。NHK短歌で一席に選ばれた芋高舞さんの歌だ。SNSでも話題になり、多くの人の共感を呼んだ。たしかに、故郷の海を見ずには死ねない。
 海育ちの私たちは体のどこかに小さな海を飼っていて、その海がいつも、帰りたい、帰りたいと囁いている。故郷の海を訪れたとき、はじめて私たちは満たされる。

かにさされ・あやこ お笑い芸人・ロボットエンジニア。1994年神奈川県出身。早稲田大学文化構想学部卒業。人型ロボット「Pepper(ペッパー)」のアプリ開発などに携わる一方で、日本の伝統音楽「雅楽」を演奏し雅楽器の笙(しょう)を使ったネタで芸人として活動している。「R-1ぐらんぷり2018」決勝、「笑点特大号」などの番組に出演。2026年東京藝術大学邦楽科を卒業。

【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No.18からの転載】