まめ学

ヒトを人たらしめる、コミュニケーションのあり方って? 伊藤亜紗×齋藤亜矢×玄田有史の学芸ライヴをリポート!

(左から)伊藤亜紗氏、玄田有史氏、齋藤亜矢氏

 

 言葉や文字を手にしたことで、ヒトは人間になり、文明を発展させてきた。しかし昨今、インターネットでのさまざまな「炎上」問題など、言葉によるコミュニケーションを取り巻く環境は厳しく、誰もがつながることができる時代ゆえの「分断」が起きている。SNSが普及した今だからこそ、コミュニケーションのあり方を再考し、新たなコミュニケーションの形を模索していく必要があるのではないか。そんなことを考えさせられるイベントが、10月11日に東京都内・日比谷松本楼で行われた。サントリー文化財団設立40周年記念 学芸ライヴ(東京)vol.2「『表現する』ということ、『伝える』ということ-どもる×チンパンジー」だ。

 「学芸ライヴ」は、メディア関係者や研究者を対象とし、異なる分野のゲストを招き、各々のテーマについて予定調和なしでとことん議論する、知的で臨場感あふれるイベント。前回に続き今年二度目の開催となる今回は、ゲストに美学者の伊藤亜紗氏、芸術認知科学者の齋藤亜矢氏を招き、引き続きファシリテーターを東京大学社会科学研究所教授の玄田有史氏が担当。コミュニケーションのあり方を考えさせられる、数々の知見に満ちた対談を繰り広げた。

■ゲストプロフィール

・伊藤亜紗(いとう・あさ)
 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。子どものころから生物の体に関心があり、東京大学在学当初は生物学を志すも「個別の細胞ではなく、昆虫の体全体から世界を見るってどういうこと?」との興味を抱き、文系に転じ、美学を専攻。「自分の体を通して世界を見ること」について考え、自身も幼少期に悩んだきつ音に関する研究を始める。現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授として教鞭を執るかたわら、障害のある当事者の身体感覚について研究・執筆している。著書に『どもる体』『記憶する体』など。

・齋藤亜矢(さいとう・あや)
 京都大学大学院医学研究科修士課程を経て、東京藝術大学大学院美術研究科修了。博士(美術)。現在は京都造形芸術大学文明哲学研究所の准教授として、認知科学の視点から芸術について研究。チンパンジーに絵を描いてもらう取り組みなどを通じて、「描く心がなぜ生まれるのか」を追究している。著書に『ヒトはなぜ絵を描くのか――芸術認知科学への招待』『ルビンのツボ――芸術する体と心』など。

■見えない人がスポーツを楽しむ方法を探る

見えないスポーツ まずは、伊藤氏が自身の研究や関心について説明。現在の、視覚障害者に向けた音声によるスポーツ実況には、ライヴ感・質感が不足しているという。その足りない部分を補うような、言葉によらない「観戦」の楽しみ方を生み出しつつあるのが、同氏がNTTと共同で行っている研究だ。

 その取っ掛かりとして、障害当事者との「伴走」クラブの活動を紹介。ここでの伴走とは、視覚障害などの障害のある人が、健常者(伴走者)と一緒に走ったり歩いたりする活動のこと。例えば視覚障害の場合、健常者と障害者が二人一組となり、同じ一本のロープを持って走る。するとそこで、興味深い現象が起こるという。初めは一緒に走りながら健常者が「次、坂ありますよ」などと声掛けをするのだが、やがて声を出さずとも、その手ぬぐいを介して健常者の筋肉のこわばりなどが伝わり、視覚障害者は何も言われずとも「あ、次は坂だ」と、見えないはずの道がわかるようになるというのだ。びっくりするような話だが、当事者によると「ロープを持って走るのは、直接手をつなぐよりもずっと情報量が多い」のだという。伊藤氏はこれを、「人と人の間の壁が、ロープで侵食される」共鳴現象と表現した。

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見えない人に柔道を伝える様子

 同氏の「見えないスポーツ図鑑」と題した取り組みでは、視覚障害者がスポーツ観戦を楽しめるような伝え方を、試行錯誤して生み出している。例えば柔道なら、健常者がスポーツのテレビ中継を見ながら、選手の動きをタオルなど身近なものを引っ張りあうことで、障害者に伝える。同じタオルを持つ障害者がそのタオルに引っ張られ、ただの傍観者ではない楽しみ方が生まれる。このように健常者と障害者が身近な道具を共有することで、見えない人でもスポーツの勢いやライヴ感などを体感できるという。

各スポーツごとに使う道具は異なり、ラグビーならひもとキッチンペーパーを使う。2個のキッチンペーパーが相互に押し合う力でスクラムを、選手のラインがフィールドのどこに展開しているかは、ひもの上を手で行き来することで表現するのだ。
各スポーツごとに使う道具は異なり、ラグビーならひもとキッチンペーパーを使う。2個のキッチンペーパーが相互に押し合う力でスクラムを、選手のラインがフィールドのどこに展開しているかは、ひもの上を手で行き来することで表現するのだ。

 こうした伝え方は競技ごとに、その競技の第一人者に監修してもらっており、プロの競技経験者とそうではない人との間で「これだ!」と一致する伝え方を模索し、決定しているという。この取り組みは、「違う体を持つ人たちの共通言語になる」と伊藤氏。道具を使い、さまざまな動きをスポーツに見立てることで、自分の視点を捨て、他者(選手)の視点を体験できるのだ。例えばラグビーのように、競技場を俯瞰(ふかん)することと選手の主観を同時に体験しようとすると、視覚では混乱してしまうが、触覚を使えば同時に受け入れることができるという。そうすることで、障害者がスポーツ観戦を楽しめるだけでなく「健常者であっても、必ずしも選手の感じているスポーツの実感を“見えて”いるわけではない」ことがわかるのだそうだ。

■コミュニケーションの2モデルとは?

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伝達モデルと生成モデル

 こうした取り組みを踏まえた上で伊藤氏は、「コミュニケーションには二つのモデルがある」と話す。「ひとつは『伝達モデル』。これは、伝統的な情報理論の中に出てくるようなもので、情報発信者がいて、言いたいことを伝達し、受信者がそれを解釈するということ。例えば、ネットでのコミュニケーションはこうなってしまいますよね。発信者側の文脈から切り離され、メッセージだけが伝わる。だから発信者の意図と違う解釈をされ、炎上・拡散されてしまうこともある」と指摘。

 一方で、同氏が推進していきたいコミュニケーションモデルは「生成(せいせい)モデル」。これは、発信者が言いたいことは最初から発信者の中に存在するのではなく、コミュニケーションの中で生まれてくるというもの。確かに、会話の中に相手に触発されて言いたいことが出てくるというのはよくあることだ。生成モデルでは、お互いの文脈が共有され、双方の身体に根差したコミュニケーションがなされる。同氏が共同研究の「スポーツの観戦」の中で生み出そうとしているのは、まさにこのコミュニケーションなのだ。

 そこには伊藤氏の問題意識がある。障害のある当事者にとって、「介助する側/される側」関係はそのまま、「情報を伝える側/伝えられる側」という役割に固定化されやすいのだ。ある視覚障害の当事者は「自分が世界を知覚する前に、他者から情報を伝えられ、世界との直接的な関わりを遮られてしまう。“障害者”を演じなければいけないように感じる」と語る。この非対称性を解消したいという思いから、伊藤氏は見えない人も参加できる空間を作り、その中で伝えるという「見えないスポーツ図鑑」の取り組みを始めたのだ。一連の話を聞いた玄田氏は「生成モデルはまさに、このサントリー学芸ライヴが目指しているものですね」と共感した。

■チンパンジーとヒトの違いは何か~アートの楽しみ方から考える~

チンパンジーのアイちゃんが描いた絵。京都造形芸術大学の学長室に飾られている。
チンパンジーのアイちゃんが描いた絵。京都造形芸術大学の学長室に飾られている。

 続いて、齋藤氏が自身の研究や関心を紹介。初めに、チンパンジーのアイちゃんが絵を描く様子と、“彼女”が描き上げた絵を見せてくれた。有名な画伯が描いたものと言われても素人目にはわからないような、立派な抽象画だ。なんとこの絵は京都造形芸術大学の学長室に飾られ、大変好評を博しているという。アイちゃんのようなチンパンジーはほかにもいるのだろうか? 齋藤氏によると、チンパンジーにも人間同様に画風があり、個体によって絵のテイストはだいぶ異なるのだという。

チンパンジーも四者四様の画風
チンパンジーも四者四様の画風
ヒトの子どもの絵の発達過程
ヒトの子どもの絵の発達過程

 ただし、チンパンジーは抽象画風のものは描くものの、具体的な事物を描くことはない。ヒトの子どもも、2歳くらいまではなぐりがきをするが、3歳ごろから「顔」のような具体的なものを表した絵を描くようになる。チンパンジーは「いまここに“ある”ものを見る」が、ヒトは「いまここに“ない”ものをイメージ」する。この想像力が絵を描くヒトとチンパンジーを分けているのだと、齋藤氏は言う。

輪郭だけの顔があると、チンパンジーはその輪郭をなぞり、2歳後半以上のヒトは、いまここに“ない”目や口を補って描く
輪郭だけの顔があると、チンパンジーはその輪郭をなぞり、2歳後半以上のヒトは、いまここに“ない”目や口を補って描く

 チンパンジーなどの類人猿は、絵を描くこと自体が楽しく、報酬がなくとも描くのだという。同様に、ヒトもまた絵を描くこと自体が楽しいという感情を持つ。一方で、ヒトはそういう“私的”な楽しみ方だけでなく、他者にイメージを伝えるなど、“社会化”された楽しみ方を持っている。齋藤氏は、言葉を持ったことで、自分の感情や思考などを符号化して効率的に伝えられるようになったのが人間の特徴だとし、いっぽうで「符号化」によって抜け落ちてしまうものがあると指摘。自分と向き合うことで、「符号化」の枠からはみ出す部分を表現するのが「アート」ではないかと述べた。表現者が、自然や現象から感じた気づき“!”に向き合い、独自の切り口から抽出した表現がアートであり、鑑賞者も作品に向き合うことで、“!”を疑似体験する。伝えるための表現とは違って、アートを介して“伝わる”という感覚。これが齋藤氏の考えるアートの面白さだという。

伝えるためのコミュニケーションと、アートによるコミュニケーション
伝えるためのコミュニケーションと、アートによるコミュニケーション
齋藤氏が描いた、喜怒哀楽の感情をリンゴで表現した絵
齋藤氏が描いた、喜怒哀楽の感情をリンゴで表現した絵

■意見交換 ~符号化・面白いということ・見立て~

 お二人の発表が終わると、意見交換へ。登壇者三人の対話は、「符号化の欲望」「面白いとは何か」「見立てとは何か」を中心に展開していく。

  • ヒトに備わる、符号化の欲望

 齋藤氏の発表後、伊藤氏は「齋藤さんの発表の、最後の“伝わる”という話に共通するものを感じました。私の生成モデルも『やりとりをしながら伝えたいことができてくる』ので、アートも同じで、『描いてみて発見する自分』がある。自分が他人に見えてくる瞬間があって、だからこそアートはすごく恥ずかしいんですよね。自分でコントロールできない部分が出てきてしまうから」と感想を語る。すると齋藤氏も「自分でも気づいていなかったことが見えたりしますよね。伊藤さんの話にもありましたが、自分のことを案外わかってないというか、表現してみてはじめて気がつくということは実感します」と相づちを打つ。両者とも、「互いに違う内容を話しているのに、共通するものがある」と驚いている様子。

 では、齋藤氏の言う「符号化」についてはどうだろうか? 伊藤氏は「人間の符号化への欲望って強いですよね。先ほど見せていただいたりんごの絵も、符号化しているように見えました」と、符号化への抗いがたさを語る。齋藤氏も「ふだん、いかに符号にとらわれているか。どうしても一般性や共通性を見つけようとするのが、言葉の特徴であり、人間の特徴なんだと思います。ざっくりまとめておいた方が理解しやすいというのはある」と同意。玄田氏は「確かにそれで安心感は生まれるけど、面白さからは遠ざかるよね」とうなずいていた。

  • 面白さって何だろう?

 では「面白さ」とは何なのか? 伊藤氏は、「面白いとは“降参”感ですね」とコメント。この発言に驚いた玄田氏は、「サレンダーしちゃうってこと?」と笑いつつも、「映画とか見て、『こりゃすごい。参った!』ってことですかね。わかる気がします」と同意する。齋藤氏も「降参感はありますね。降参してしまうのは、それがいま持っている自分の枠に収まらないものだから。『おもしろい、降参だ!』となることで、新しく枠が広がる感じがします。降参しない人は『そんなものは意味がない、存在を認めない』って自分の枠を変えずに理解を拒否しちゃう感じです」と説明。

 玄田氏が「枠自体はなくならないんですか?」と聞くと、齋藤氏は「やっぱり、枠に入れようとするのが言葉であり、人間なので…。枠に入らないものは怖いし、落ちつかない。だから、枠に柔軟に受け入れて、広げていく方がいいな」と答えていた。

  • 「見立て」とは何か?

 続いて、話題は「見立て」の話へ。伊藤氏が「障害のある方と話していると、自分の趣味を使って障害に向き合おうとする方が多いんです。あるきつ音の方は、ディズニーランドに行くのが趣味で、そこのキャストさんの話し方をまねることで自分の発話を円滑にしようとする、ということがありました。つまり、『どもる』という目の前の課題を解決するために、『ディズニーランド』という本来はきつ音とは全く関係ない、でもその人にとってはたまたま手元にあった知識やスキルが、課題解決のために転用されていくんです。チンパンジーにもそういうことはあるのでしょうか?」と問いかける。

 この問いに、齋藤氏は「チンパンジーが、天井の格子にホースをひっかけて、ぷら~んとぶら下がって遊んだあとに、長靴も同じようにひっかけて無理矢理ぶら下がろうとしたり。ある物を使ってした行動を別の物でも試すようなことはあります。また、あるものを別の何かに見立てて扱う“見立て遊び”も、たまにあるんです。アルタミラの壁画のように岩の凹凸に何かを見立てることはないですが、物の扱いに関わる見立てはちょっとあるみたいです」と答える。

 ここで、玄田氏が「“見立て”ってなんですかね?」と投げかける。伊藤氏は「AだけどAじゃない、ということ。石は島として見る、枯山水とかも見立てですし」と言い、齋藤氏は「例えば岩が顔に見えたとして、われわれがその岩を顔と認識するのは、『顔』とは、輪郭があって、目が二つあって、口があって・・・、という概念(表象スキーマ)を岩の形にあてはめて見るから。意味処理のしくみを拡張したのが見立てなのだと思います」と説明。伊藤氏は「それを言うと、すべてが見立てですよね。私が見ている齋藤さんのこの部分も、私が『顔』に見立てている。私たちが見ているのは現実の世界そのものではなくて、VRみたいなもの。全部見立て後の世界なんですよ」と語ると、齋藤氏も「それがうまくいかないと、見えているのに顔だとわからない“相貌失認”にも関係するのでしょうね」とうなずいていた。

サントリー提供の飲み物を片手に歓談する様子
サントリー提供の飲み物を片手に歓談する様子

 

■質疑応答 ~見立ての政治性、コミュニケーション能力と人間的評価~

 意見交換が一段落すると、玄田氏が「生成モデルっていいですよね。ということで、この会は一方的な発信ではなく、双方向的にやっていきましょう」と、来場者に質問を募集。

 さっそく、「見立ての力は、大人になると落ちてくるものなのか?」という質問が挙がると、齋藤氏は「見立てる力は大人も持っていますが、ふだんの生活では必要がないからあまり使わなくなっている。例えば道の先にあるのが『木』だとわかれば十分で、あとはぶつからないように歩けばいい。わざわざほかの見立てをする必要がなくなるというのはあるのでは」とコメント。

 伊藤氏は「大人の見立ては政治性を帯びてくる。例えばG・レイコフらが指摘しているように、『議論』って論争とか戦略とか、戦争の見立てで語られますよね。それが議論という営みそのものの性質も作ってしまっていて、これがもし踊りの見立てで語られていたら、議論ってもっと優雅なものだったかもしれない。見立てにはそのものの見方を作る力があり、共通理解のようなもの、ときには共同体の一体感を作るものでもあるんです」と語った。確かに、どの言葉を選んで使うかで、その人の思想性やコミュニティの方向性が見えてくることはままあるだろう。自分や自分の属する集団のコミュニケーションを振り返る、重要なヒントになりそうだ。

 続いて、「近年、コミュニケーション能力の低い人間が増えているのではないか」という意見が出ると、伊藤氏は「そもそも、コミュニケーション能力と人間的評価は分けるべき。私はアメリカにいたとき、英語ではかなりどもったけれど、周りの人たちはそこを分けてくれた。言語の運用能力が低くても、人間としてちゃんと評価すべきことは評価する。そうすれば、コミュニケーションが苦手な人も楽になれるのでは」と回答。玄田氏も「伝える伝えられるではなく、場を共有する力を持ちたい。つなげる力が大事なのであって、発信する力が大事なわけではない」とうなずく。コミュニケーションが不得手な筆者は、皆さんのこうした言葉に救われる思いがした。

■終わりに

 あいにくの荒天であったが、この日のイベントは終始なごやかに進行し、お開きとなった。言葉によるコミュニケーションは、ヒトを人たらしめるものだが、同時にそこからこぼれ落ちてしまうものもある。それをすくい上げるのが、アートを通したコミュニケーションや、触覚を使ったコミュニケーションなのかもしれない。そういうつながり方が普及することで、救われる人も多いのではないだろうか。筆者は学芸ライヴへの参加は二度目。毎回、さまざまな分野、さまざまな角度からの視点を得られるこの会は、まさに「他者の視点を獲得」し、「自分の枠を広げる」ものになっていると思う。今後の学芸ライヴの開催が、今から待ち遠しい。

(文・写真:織部弓槻)