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【スピリチュアル・ビートルズ】浮かんでは消えたビートルズ再結成話 「グループ内民主主義」を守った4人

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 1970年4月、ポール・マッカートニーのビートルズ脱退宣言によりグループは事実上解散した。しかし、70年代を通してビートルズ復活を待望する声が止むことはなく、再結成をめぐる話が浮かんでは消えたのである。いや、80年にジョン・レノンが非業の死を遂げた後でさえ、彼の息子を代わりにした「再結成」を望む人さえあったのだ。

 ビートルズをアメリカに上陸させたことでも知られる大物プロモーター、シド・バーンスタインや、クルト・ワルトハイム国連事務総長(当時)による慈善コンサートのためのビートルズ再結成を求める声にもかかわらず、4人が再び同じステージに立つことはなかった。

 ビートルズ再結成が真剣に検討されたことはあったという。だが、結局4人のうちの一人でも反対ならば承諾しないという、解散はしていたものの4人の間で生きていた「グループ内民主主義」の原則が守られたのだ、とポールもリンゴ・スターも振り返る。

 70年代を通してビートルズ再結成の舞台の一種の「ひな形」とみなされていくのが、ジョージ・ハリスンらの呼びかけで71年8月1日に実現したニューヨークでの“バングラデシュ難民救済コンサート”である。ライブCDのライナーノーツによると、ジョージは再結成してもよいと考えていたという。実際、リンゴは参加。ジョンはパラノイア発作で参加できず、ポールは「再結成ととられるのが嫌」との理由で断りを入れたという。

CD『バングラデシュ・コンサート/ジョージ・ハリスン&フレンズ』(ソニーミュージック・ダイレクト)
CD『バングラデシュ・コンサート/ジョージ・ハリスン&フレンズ』(ソニーミュージック・ダイレクト)

 大規模慈善コンサートの先駆けともなった一日限りの公演は、それだけで25万ドル(当時のレートで約7千850万円)の収益をもたらしたと、ユニセフ(国連児童基金)のための米基金総裁チャールズ・リオンズは語った。ボブ・ディランやエリック・クラプトンらロック界のスーパースターたちが集った催しでもあったが、ジョージ、リンゴが背負った「ビートルズ」の看板の底知れぬパワーを国連関係者に印象付けたようだ。

 どこかうさんくさいオファーは絶えなかったようだが、ビートルズ再結成を求める声が一気に高まり、現実味を帯びて話題となったのは、76年9月。背景として、ちょうどポール率いるウィングスが北米ツアーを成功裏に終えたタイミングだったことが挙げられよう。

 直接のきっかけは、バーンスタインが同月19日付ニューヨーク・タイムズ紙などに打った全面広告。この広告のため彼は自ら6万ドルを拠出、ヤング・ラスカルズのメンバーとして知られるフェリックス・キャバリエや米女性シンガーソングライター、ローラ・ニーロらから資金を集めた(バーンスタイン著『証言!ビートルズとスーパースターたち』創文)。

『証言!ビートルズとスーパースターたち』(シッド・バーンステイン著 創文刊)
『証言!ビートルズとスーパースターたち』(シッド・バーンステイン著 創文刊)

 「親愛なるジョージ、ジョン、ポール、リンゴ」で始まるタイプ文字の「ビートルズへの手紙」の内容は、ボートピープルといわれたインドシナ難民救済のために、ビートルズに再結成してもらい、コンサートをしてほしい、と訴えたものだった。バーンスタインはビートルズの功績を「あなたがたは世界をより幸せな場所にしてくれた」と称えるとともに、世界が救いがたいほど分断されているように見える今こそ、ひと肌脱いでほしいと迫った。

 そして広告は、たった1回の慈善公演で、総収益は2億3千万ドル(当時のレートで約550億円)を見込んでいること、開催日は77年の元旦か(春分の日以降最初の満月の後の最初の日曜日である)イースター(キリスト復活日)、候補地はキリスト生誕の地とされる中東のベツレヘムやビートルズの出身地である英国の港町リバプールを挙げていた。

 広告でユニセフの関与に言及があったため、国連内でも大きな反響を呼んだ。バーンスタインはワルトハイム国連事務総長のアシスタント、ハンス・ヤニチェックと会ったと明らかにしている。ヤニチェックは「事務総長は長年、ユニセフのためにビートルズが再結成する可能性を探ってきた」と述べ、「ここはビートルズとつながりのあるバーンスタイン氏に任せるが、国連全体で何らかの協力をしたい」というワルトハイム氏の言葉を伝えたという。

 だが結局誰もビートルたちを説得出来ず、彼ら自身も内部でいろいろ問題を抱えていたため、再結集は実現しなかった。バーンスタインは自著の中で悔しさをあらわに書いた。「善良な神が、あの4人の青年に特別なものを与えた。しかし彼らは、どんなに愛しく思われていたか、またそれに伴った責任の範囲、その影響力などには、気付いていなかったと思う」。

 再び、ビートルズ再結成を求めるフィーバーが巻き起こったのは79年秋のこと。9月21日、インドシナ難民を救う資金を集めるため、ビートルズに再結成してもらい、慈善コンサートを開いてほしいという希望を、今度はワルトハイム国連事務総長自身が表明したからだ。この動きは日本でも、9月22日付朝日新聞夕刊が「ビートルズ よみがえる?!」との見出しで大々的に取り上げるなど大いに注目を集めることとなった。

 しかし、ポールはロンドンで開かれたギネスブック社のレセプションの席上、ビートルズ再結成をきっぱりと否定した。10月29日付朝日新聞夕刊がAP電で伝えた。「われわれ4人はこの問題で話し合ったけれど、一緒に演奏することにはならないだろう」。

ビートルズ再結成の可能性を報じる、1979年9月22日の朝日新聞夕刊。
ビートルズ再結成の可能性を報じる、1979年9月22日の朝日新聞夕刊。

 結局、この話は12月にロンドンでカンボジア難民救済のための慈善コンサートが開かれるということで落ち着いた。12月26日から29日まで開かれたコンサートには多くの大物アーティストが集結。ビートルズ再結集はなかったものの、最初からワルトハイム氏とコンタクトをとっていたというポールがウィングスを率いてトリを務めた。

 度々持ち上がったビートルズ再結集話について、ジョンは生前のインタビューで皮肉まじりに次のように語っていた。「ぼくは高校の同窓会には行ったことがないよ。去る者日々にうとし―こいつがぼくの考え方だ」。2001年11月に鬼籍に入ったジョージは、社会問題の解決に向けて、いわゆる「ポップスター」が手本を示すよう求められているあいだは、まだまだなのだ、と語っていた(『自伝アイ・ミー・マイン』河出書房新社)。

 ポールは、再結成話について「最初のうちはぼくらは『いいね』などと言っていたが、結局4人のうちの一人がいつも反対することになったものだ。それで万事休す、というのもぼくらは徹底した民主制だったからだ」(『ローリング・ストーン』誌2012年2月15日号)と語っている。そして、4人そろわずステージに立つこと自体「一種の冒とく」(ポール)だとも。

(文・桑原亘之介)