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【スピリチュアル・ビートルズ】70年代半ば、急接近していたジョンとポール メイ・パンが語る「失われた週末」

“DOUBLE FANTASY - John & Yoko”、東京展でも「失われた週末」のコーナーがあった。
“DOUBLE FANTASY – John & Yoko”、東京展でも「失われた週末」のコーナーがあった。

 ビートルズ解散後、レコード上あるいはインタビューなどを通してやりあってきたジョン・レノンとポール・マッカートニー。だが、そんな表面上の「不仲」にも関わらず、二人は70年代半ばに急接近していた。ジョンのいわゆる「失われた週末」の時期である。

 オノ・ヨーコと別居中のジョンが落ち込んでアルコールや薬物に溺れ、仲間たちとコントロールが不能ならんちき騒ぎを繰り返していたとして、「失われた週末」は一般的には悪名高い。だが、ジョンの「愛人」だったメイ・パンは「非常に生産的な時間」だったという(2008年3月12日付「インターナショナル・ヘラルド・トリビューン」)。

 ジョンは3枚の作品――『マインド・ゲームス』、『心の壁、愛の橋』、『ロックン・ロール』を完成させ、ハリー・ニルソンのアルバム『プシー・キャッツ』をプロデュースし、デヴィッド・ボウイやエルトン・ジョンとレコーディングをしていた。

『心の壁、愛の橋/ジョン・レノン』 (ユニバーサルミュージック)
『心の壁、愛の橋/ジョン・レノン』
(ユニバーサルミュージック)

 メイは ’73年の夏から’75年初めまでジョンとともに暮らしていた。この18カ月が「失われた週末」といわれる時期だ。メイは ’70年の終わりから、ジョンとヨーコのもとで個人秘書や彼らのプロダクション・コーディネーターとして働いていた。

 ’73年の夏のある朝、ヨーコがダコタ・ハウスの中にあるメイのオフィスにやって来た。ヨーコは、ジョンとうまくいっていない、と打ち明け、ジョンは「新しい誰か」を必要としているのだ、と言った。そしてメイに「ボーイフレンドはいるの?」と尋ねてきた。メイは動揺した(2008年2月9日付英「デイリー・メイル」紙)。

 しかし、ヨーコは続けた「あなたは彼とデートすべきだと思うわ」。「もしジョンがそう望んだら、そうしてね」。そして二週間後、ジョンは『マインド・ゲームス』のレコーディングを再開したが、エレベーターの中で、ジョンは同行していたメイを抱き寄せて、キスをしてきた。そして幾晩かのアプローチがあった後、二人は結ばれた。

 『マインド・ゲームス』が完成すると、ヨーコはフェミニストのセミナーに参加するためにシカゴに飛んだ。その「隙」に、ジョンはメイと弁護士とともにロサンゼルスに行くことを決断する。これがいわゆる「失われた週末」のスタートだった。

 この時期に、今では「歴史的な出来事」とされる多くのことが起こった。ジョンとポールの3年ぶりの再会とジャム・セッションがその一つだ。メイはいう「彼らは兄弟だった。彼らの障害の多い関係についての多くの話を聞いていたから、彼らがあたかも前日にも会っていたかのようにすぐに暖かな友情を取り戻したのには、ちょっと驚かされた」。

 メイは「ポールをロサンゼルスに来させたのはヨーコだった。ポールにジョンを説得してもらい、彼女のもとに帰るようにさせるためだった」(ウェブサイト「ビートルズ・バイブル」掲載の2011年1月に行われたメイとのインタビュー)。

 ’70年にビートルズが解散してから初めてのジョンとポールの「共演」は、’74年3月28日に起こった。カリフォルニアのバーバンクにあるスタジオでのことだ。

 ジョンはハリー・ニルソンの「プッシー・キャッツ」をプロデュースしていたが、そのレコーディングの初日が終わろうとしていた時のこと。その時、スタジオにいたのはジョン、メイ、ハリー、ギタリストのジェシ・エド・デイヴィス、ビートルズのローディーだったマル・エヴァンスだった。そこにポールとリンダが入ってきたのだった。

 「ジョンとハリーがジャム・セッションをしたがり、ポールも賛成した。リンダはハモンド・オルガンのところに行き、ジェシ・エドはギターを、ポールはドラムをすることに決めた。私とマルはタンバリンを手に取った」とメイは回想した。

 さらに、近くでレコーディングしていたスティービー・ワンダーが加わった。2011年5月25日付「ハフポスト」によると、スティービーは「私たちは「スタンド・バイ・ミー」を一緒にやったと思う。クレイジーだった。そしておもしろかった」と語った。他には「ルシール」、「キューピッド」や「テイク・ディス・ハンマー」といった曲も即興演奏された。

 2012年にポールは、その夜のジャム・セッションについて尋ねられ「私たちはみんな酔っぱらっていた。酔っぱらっていなかったものはいなかったのではないか。それはちょうどパーティのようなものだった」と振り返った(米「ローリング・ストーン」誌)。

 90年代に入ってから、このセッションの様子が収められた『A Toot and a Snore in ‘74』というタイトルの海賊盤が出回ることになる。ちなみに「toot」とはコカインの俗称で、「snore」とは「ひと眠り」のことで、意味深である。

 ヨーコの居ぬ間に急速に最接近したジョンとポール。ポールは ’75年の1月からニューオリンズで『ヴィーナス・アンド・マース』の制作に取り掛かっていた。メイはいう「ジョンと私はニューオリンズに行ってポールとリンダを訪ねるつもりでした。(そうしたら)ジョンはポールと一緒に再び曲を書いていたでしょう」。

 同時期にジョンは、ビートルズのPR担当だったデレク・テイラーに、次のようなナンセンスなユーモアたっぷりな手紙を書いていた――「ひょっとしたらニューオリョンズまで南下してマッカートネエネエズに会おう・・・はるばる来たぜ黒人さんにチップ!」(ハンター・ディヴィス編著「ジョン・レノン レターズ」角川書店)。

 「ジョンは本当にポールに会いたがっていました」とメイは2001年9月25日の「フォックスニュース」で語った。しかし、ジョンとメイがまさにニューオリンズに行こうとしていた時に、ジョンはニューヨークに戻ってしまったのだ。

 ヨーコがジョンに「禁煙法」を教えるからニューヨークに戻ってきて、といって連絡をしてきていたのだった。メイは推測だと断りながら「ヨーコは、ジョンがポールと再び一緒になったら、ヨーコのもとには二度と戻ってこないと恐れていた」という。

 ’89年、メイは、ポールのワールド・ツアーに向けてのプライベート・リハーサルの場で、ポールとリンダに会った。メイは「ジョンは本当にあなたのことを愛していたことを知ってもらいたかった。ジョンはあなたとまた曲を書きたいと本当に思っていたの」と伝えた。ポールはそれを聞いて言った「素晴らしかっただろうな」。

文・桑原亘之介