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【スピリチュアル・ビートルズ】最初で最後となったジョージの日本ツアー 新幹線がお気に入りだった

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 平成の幕開けから3年連続でビートルズたちの日本公演が実現し、ファンたちは熱狂し、感激のあまりむせび泣いた。まず、1989年のリンゴ・スターの第一期オール・スター・バンドを率いての公演。 ’90年にはポール・マッカートニーが、10年前の雪辱を果たす形で、日本に上陸。そして驚かされたのが ’91年のジョージ・ハリスンの日本ツアーだった。

 リンゴとポールはその後もコンサートのために日本を何度も訪れることになるが、ジョージの日本ツアーは後にも先にも一度限り。しかも、親友のエリック・クラプトンと彼のバンドとの共演だったことは、英米のファンたちを大いにうらやましがらせた。

 エリックが’90年に世界ツアーを行っている時、どこに行っても「ジョージは何をしているんだい?」とか「どうして彼は音楽を作っていないのだ?」と尋ねる人たちがいたという(アシュレー・カーン編「George Harrison on George Harrison」Chicago Review Press)。

 ’91年の初めにエリックはロイヤル・アルバート・ホールで「24ナイツ」ツアーを行っていたが、その頃にエリックはジョージに「今年はこのあと、オフになる。もし君が僕たちと何かをしたいのなら、喜んでバックアップするし、自分でバンドを持たねばならないという問題もクリア出来るだろ。考えておいて欲しい」と言った。

 ジョージには苦い記憶があった。’74年に7週間にわたる27都市50公演の北米ツアーを敢行したが、ジョージの喉の調子が優れず、メディアからはネガティブな意見が相次いだのだ。 ’92年7月21日にWNEW-FM局のインタビューに答えたジョージは、「74年はやることが多すぎた。とても忙しい年だった」と振り返りつつ、説明した。

 まず、3枚のアルバムをプロデュースし、ラヴィ・シャンカールの欧州ツアーに関わり、多くのミーティングをこなし、ジャージー・コシンスキーという人と一緒にミュージカルを書こうとしていたし、自分自身のアルバム「ダーク・ホース」の制作もあった。

 「ツアーが始まる前に、すでにヘトヘトだった」とジョージ。そのうえリハーサルで喉を傷めてしまった。コンサートではしゃがれ声がいやがおうでも耳につき、ジョージが「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」の歌詞「ウィープス」を「スマイルズ」と変えて歌ったことなどが批判的に捉えられた。

 ジョージは迷いに迷ったという。しかし、’92年になればまたエリックたちは忙しくなるだろう、そうしたら、もう機会がないかもしれない、「遅かれ早かれ、ぼくは何かをしなければならない。さもなきゃ、ぼくは永遠にツアーが出られないだろう」。

 日本ツアーを決断したジョージ。まず約30曲入りのカセットテープを作り、エリックのバンド・メンバーに渡したという。ジョージが、候補曲として、ヒット曲、ビートルズ時代の意義があると思える曲と自作曲を選んだのだという。中にはレコーディングの時に歌った限りで、それ以来歌ったことのないナンバーもあり「新曲のようだった」。

 そして ’91年11月28日、ジョージらはついに日本にやって来た。彼の来日はビートルズの日本公演以来25年ぶりのことだった。熱狂的なファン約100人が成田空港で出迎えた。翌29日にはキャピトル東急ホテルで記者会見が開かれたが、報道関係者が600人あまりも詰めかけて会場を埋め尽くすほどの注目ぶりだった。

 会見では「京都に行って、お寺を見たい。一番いい時期ではないようだけど、あと26年後に来られるかどうかわからないからね。あと電気屋(東京・秋葉原)にでも行って電動歯ブラシでも買うよ」とジョーク交じりに話していたジョージ。

 12月1日、横浜アリーナで、約2週間12公演の日本ツアーがスタート。オープニング・ナンバーは「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」。それを含めて前半は9曲――うちビートルズ・ナンバーは6曲、途中エリックのコーナーを挟み、後半に10曲――うちビートルズ時代の自作曲2曲とカバー曲1曲を含む——という内容だった。

 とりわけ観客を興奮させたのがアンコール一曲目、ジョージとエリックのギター・バトルが堪能出来る「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」だった。ジョージは振り返って「オリジナルよりはるかに良い出来だった」と語っていた。

 コンサートの締めは「ロール・オーヴァー・ベートーヴェン」だった。ビートルズのツアーでもジョージが歌っていたチャック・ベリーのナンバー。間奏でのレイ・クーパーのパーカッションと掛け声による「盛り上げぶり」がことさら印象に残った。

 日本公演の模様は(エリックのパートを除き)『ライヴ・イン・ジャパン』という2枚組CDで楽しめる。ビデオ撮影もされたが、ジョージに言わせると「日本のテレビ局との交渉マターだ。彼らは手っ取り早く、しかも安上がりにすることばかりに興味があった」。

ジョージ・ハリスン LIVE in JAPAN

 さておき、ジョージは京都に行けたのだろうか? ザ・ビートルズ・クラブ(BCC)の「ジョージ・ハリスン日本公演全記録」によると、12月4日の大阪でのオフ日、京都に行こうとしたが、お目当ての苔寺(西芳寺)が参観出来ないことを知って、取りやめた。その代わり、三宅一生のブティックでお気に入りのスーツを見つけて購入したという。

 次のオフ日だった広島での12月7日。ツアーのスタッフらと平和記念公園周辺を散策。原爆資料館を見たり、公園の鐘を鳴らして、その中に頭をつっこんで残響音を聞いたりしながら、散歩を楽しんだ。原爆資料館では大変なショックを受けていたという。

 12月13日の大阪から東京へ移動中の新幹線車内では、オリビア、ダニー、バンドのメンバーらと一緒にビートルズ・ナンバーを歌っていたという。「ノルウェーの森」、「ノーホエア・マン」、「悲しみをぶっとばせ」などが聞こえてきたという。

 ジョージは日本では特に新幹線を気に入った。「とても静かで、時間に正確で、旅をするにはとてもいいね。速いし優れているしね」と述べていた。北米などでは移動に飛行機を使わざるをえなく、時には時差ぼけに苦しむが、新幹線ならその心配がなかった、とジョージ。

 大いにファンを楽しませ、ジョージ自身も四半世紀ぶりの日本を味わったツアーだった。だが、彼が再び日本の地を踏むことはなかった。日本公演からちょうど10年経った2001年秋、ジョージはガンによりこの世を去ってしまったからだ。

文・桑原亘之介