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【洋楽を抱きしめて】「涙の別れ道」 AOR路線で蘇ったディオンヌ

『ディオンヌ/ディオンヌ・ワーウィック』(輸入盤)
『ディオンヌ/ディオンヌ・ワーウィック』(輸入盤)

 学生時代、海外の放送を聴くBCL(Broadcasting Listening)という趣味にはまっていた。もっぱら短波の放送だったが、中波の海外放送にダイアルを合わせることもあった。中でも気に入っていたのが、周波数610キロヘルツのグアムのラジオ局KUAMだった。

 短いDJの話と地元ショッピングセンターなどのCMを除くと、ほとんどが音楽、それも米国の最新ヒット曲がノンストップで流されていて、深夜によく耳を傾けた。

 当時KUAMでよくかかっていた曲のひとつが、ディオンヌ・ワーウィックの「涙の別れ道」(I’ll never love this way again)だった。ゴージャスなサウンド、パワフルでダイナミックなディオンヌのボーカルにたちまち魅了されてしまった。

 ディオンヌは息の長いアーチストだ。1940年ニュージャージー州生まれ。姉妹のディー・ディーと彼女はグループを結成する。ニューヨークのハーレムにあるアポロ・シアターでステージに立ったことがきっかけでプロのバック・コーラスの仕事への道が開けた。バックグラウンド・シンガーとしてのアルバム・デビューは ’59年のこと。

 実績を重ねたディオンヌは ’63年、ソロ・デビュー。同年、バート・バカラックとハル・デイビッドのコンビと組んだ初ヒット「ドント・メイク・ミー・オーバー」が生まれた。順調な道のりを歩み、’64年には「ウォーク・オン・バイ」、’67年に「小さな願い」(I say a little prayer)、’68年に「サン・ホセへの道」、’70年に「恋よ、さようなら」(I’ll never fall in love again)など多くのヒット曲を生み出した。

 ’72年にはこれまでのセプター・レコードからワーナー・ブラザーズ・レコードに移籍。’74年に「愛のめぐり逢い」(Then came you)がヒットしたものの、ディオンヌにとっては苦しいときが続き、’77年にはレーベル関係を終えることになった。

 ’78年にディオンヌの新しいレーベルがアリスタになることが決まる。アリスタの総帥クライブ・デイビスはディオンヌの復活に向け、並々ならぬ意欲を示す。そしてアリスタの看板スター、バリー・マニロウをプロデューサー、ソングライターとして、彼女の第一線への復帰に向けて、抜てきしたのである。結果は大成功であった。

 自身の名前を冠したアルバム『ディオンヌ』からの第一弾シングル「涙の別れ道」は ’79年に全米5位まで上昇。アイザック・ヘイズが書き下ろした「恋にめぐり逢い」(Déjà vu)もヒットした。アルバム全体にマニロウの都会的センスが光り、ディオンヌには従来の持ち味にAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)的要素が加わった。

 次にディオンヌの助っ人となったのが、当時ノリに乗っていたビージーズのバリー・ギブだ。彼は、アルバム『ハートブレイカー』( ’82)の共同プロデューサーの一人として名を連ねた。ビージーズの手になる表題曲は全米10位のヒットを記録した。

 70年代後半からのディオンヌの第2の黄金時代を代表する「涙の別れ道」を耳にすると、深夜ラジオを聴いていた自分の姿を思い出す。KUAMの受信はいまは難しい。

文・桑原亘之介