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【スピリチュアル・ビートルズ】星加ルミ子さんが語る4人(下) 正真正銘だった楽曲クレジット「レノン=マッカートニー」

『ビートルズ・ロッキュメンタリー 太陽を追いかけて』(星加ルミ子/TOKYO FM出版)
『ビートルズ・ロッキュメンタリー 太陽を追いかけて』(星加ルミ子/TOKYO FM出版)

 デビュー前からビートルズに一番近く「兄」のようでもあったマネージャーのブライアン・エプスタインが1967年8月、薬物の過剰摂取から急逝した。ちょうどビートルズもブライアンも転機を迎えていた。4人はそれぞれの活動にも踏み出し、オフでも顔を合わせることが少なくなっていた。精神世界の探究に踏み出そうとしていた時期でもあった。

 一方で、ブライアンはそんな4人の「boys」を見ていて、「自分が育てたグループなのだから、これからも一緒にやっていきたい」と思っていたという。

 音楽雑誌「ミュージック・ライフ」編集長だった星加ルミ子さんは「ビートルズのインド行きも、彼らが、密かに(ブライアンとの新たな)契約について話し合うためとの憶測も流れ、離れていく4人のことを苦にしての自殺だともいわれたのです」という。

 ブライアン亡き後、ビートルズが初めてスタジオに集まるとの情報が寄せられた。星加さんは’67年9月初め、ロンドンに飛んだ。9月25日、ビートルズが夜7時にレコーディングのためにEMIスタジオに集まるというので、星加さんらは5時過ぎにスタジオに行った。

 6時ちょっと前に、ポール・マッカートニーが一人で入って来た。「ポールはピアノの前に座ると、いろいろと書いてあるくしゃくしゃの紙を取り出して譜面台に置くと、それを片手で押さえながら、もう一方の手でピアノを弾き始めたのです」と星加さん。10分後、ジョン・レノンがスタジオ入りした。星加さんによると、ポールはジョンにその紙を渡すと、ジョンはピアノに肩ひじをつきながら、紙の上に何かを書きなぐり始めた。

 ジョージ・ハリスンとリンゴ・スターも加わった。「ポールはピアノでメロディーを弾き始め、“途中にピアノソロを入れようと思う”と言うと、ジョンは“違う楽器のほうがいい”と言った」と星加さんは語る。詞も曲も2人の共同作業であり、「レノン=マッカートニー」というクレジットが正真正銘なのだと星加さんは理解したという。

 星加さんはいう「ポールは置かれていたリコーダーを取り上げ、間奏部分に美しくも物悲しいメロディーを入れ始めたのです」。その作品は「フール・オン・ザ・ヒル」だった。

 その日は9時半ごろまで星加さんらはスタジオに残っていた。翌日からテレビ映画「マジカル・ミステリー・ツアー」(MMT)の撮影ロケに行くけれど「一緒にどうだい?」とジョンからお誘いがあったが断ってしまった。星加さんは後悔した。「大失敗だった。エキストラの1人として出演できたかもしれないと思いました」。

 ’67年12月26日、イギリスでMMTがBBCで放送された。星加さんはイギリスにいて、英国人記者たちと一緒に食事をしながら見ていたという。「みんな“何だ、これは?”と口々に漏らし始めました。翌日の新聞はそろって酷評していました」。

 それでも星加さんは「日本のファンにも見せてあげたいと思った」。日本に帰って相談すると、星加さん自身がロンドンに再び行ってMMTを買いつけて来いということになった。「商売はもとより、映画、テレビ業界のことも分からない弱冠27才でした」。

 星加さんはまず、NEMSの映像責任者バーナード・リーに会いに行った。「その時に提示された一回の放映金額を日本で伝えると、みんなぶっ飛んだ。というのもハリウッド映画を1本買えるくらいだったからです」と星加さんはいう。

 再度、ロンドンへ。まだ買いつけてもいないのに、日本では’68年の9月に日本武道館で1回上映、10月と12月にそれぞれ1回テレビ放送することが決められていたという。

 スポンサーの納得が得られず、星加さんはまたもやロンドンへ飛んだ。EMIに挨拶に行くと、近くのビルにアップル設立前の準備オフィスとしてビートルズ4人の部屋があるという。賑やかな声が聞こえてきたポールの部屋に入っていくと、ジョンとジョージが来ていて、アップルと契約をするためにフォーク歌手のドノバンもいた。

 そこでMMTの買いつけが難航していることを話すと、ポールが電話をし始めた。これが「魔法」のように効いた。星加さんによると、「翌日、ミスター・リーは満面の笑みを浮かべていた。ポールから電話があり、“日本で多くの人に見てもらえるよう、日本側の条件を飲んで欲しい”と言われたという。安くして欲しい要望を伝えると、即座にOKだった」。

 9月のMMT武道館上映は無事終わり、10月の第一回目のテレビ放送となった。夜8時からの全国放送だったが、トラブルが発生する。「MMTは4本のリールに収められていました。まず第1のリールが流され、2が続いた。CMが終わって流れたのは3でなく4でした」。番組が終了する直前に手書きのテロップ「見苦しいところがありました」が流された。

 星加さんは’68年12月23日に開かれたアップル創立を記念するクリスマス・パーティにも招かれた。アップルの従業員たちと家族、関係するミュージシャンたち、そしてもちろんビートルズの4人らが集まり、立錐の余地もないほどの盛況だった。

 リンゴが真っ先に星加さんを見つけて、手招きをしてきた。するとリンゴは「ちょっと離れるので、2人の子どもたちを見ていてくれないかという。ザックとジェイソンはいろいろと食べていて、私はそれを手伝いました」と星加さんはいう。

 会場にサンタの恰好をした男女が現れて、子どもたちにプレゼントを配っていた。ジョンとオノ・ヨーコだった。しばらくして「パーティの騒ぎを抜け出して隣の部屋に行くと、2人はくっついていて、常に顔を見合わせて微笑んでいました」。

 星加さんがビートルズの4人を最後に見たのは’69年1月30日のこと。滞在していたロンドンのホテルにアップル・レコードの責任者ロン・キャスから電話があり、「今、アップル・ビルの屋上でビートルズが演奏しているけれど、来る?」と言うので、飛んでいった。

 いわゆる「ルーフトップ・セッション」が終わると4人は階段を駆け下りてきた。寒い日だった。ポールが星加さんを見つけ「ロンドンに住んでいるのかい?」と軽口を叩いた。

 ビートルズは’70年に解散する。だが、ビートルズの音楽は一過性ではなかった。星加さんはいう。「どの曲もどの曲も素晴らしいと思います。時代を超えて、今そしてこれから先の人たちにも歌い継がれていくと思います。ベートーベン、バッハ、モーツァルトのように、地球が滅ぶまで続いていく音楽家だと思います」

 (この3回続きの記事は次のイベントや資料を参照した。〇2022年10月29日・横浜中華街「李世福のアトリエ」でのトークイベント〇2022年11月4日・有楽町マルイでのトークショー〇ハイブリンクス出版の星加さんのオーディオブック〇星加さんの著書「ビートルズ・ロッキュメンタリー 太陽を追いかけて」(TOKYO FM出版)〇星加さんの著書「私が会ったビートルズとロック・スター」(シンコーミュージック・エンタテイメント)、淡路和子著「ビートルズにいちばん近い記者 星加ルミ子のミュージック・ライフ」(河出書房新社)

文・桑原亘之介