英国でビートルマニアが誕生し、米国でもビートルズ旋風が吹き荒れ、ここ日本でも遅まきながら人気が沸騰していった1960年代半ば。
そのビートルズが「日本にやって来るヤア!ヤア!ヤア!」でないが、4人の日本公演のスケジュールが正式に発表されたのは’66年4月下旬。それから実際に彼らが日本の地を踏むまでの2カ月間、ビートルズはいわば日本列島を覆う「社会現象」ともなった。
’66年6月29日早朝に羽田空港に降り立ったジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター。翌30日から7月2日にかけて日本武道館で計5回コンサートを開く。計3万枚のチケットを求めて全国から21万件の応募があった。
その「黄金」チケット入手方法は往復ハガキによる抽選だった。音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の星加ルミ子編集長(当時)は、主催だった読売新聞社を訪ねる機会があった。「かなり広い一つの部屋が全国から届いたハガキで埋まっていました。あとから聞くと、警察官立ち合いのもとで、厳正な抽選が行われたとのことでした」。
星加さんはコンサートを一回見た。「場内の歓声がすさまじく、警備が厳しくて立ち上がることも許されず、通路にも出られなかった。いわば席に縛りつけられた感じでした。それでもファンたちは声を張り上げて精いっぱいの応援をしていたのです」。
当のビートルズの4人も宿舎のヒルトンホテルに缶詰めにされ、ホテルと武道館の往復だけが許された。買い物にも行けない彼らのために、お土産屋が部屋に呼ばれた。ビートルズ4人の買い物は「合計で65万円だった」と星加さんはいう。
星加さんが一番興味を持ったのは日本公演のチケットの料金設定だった。3種類のチケットがあり、一番高いもので2,100円だった。星加さんは「安い」と思った。星加さんは日本滞在中のビートルズとホテルの部屋で特別に会うことができたが、マネージャーのブライアン・エプスタインは星加さんの疑問に次のように答えたという。
「2,100円というのはLPレコード1枚の値段にしてくれと頼んだことからつけられた値段です。どこの国に行っても、LP1枚の価格がチケットの値段の基準として設定されています。ティーンエージャーはお小遣いをたくさん持っていないからです」。
それに対して日本側の招聘元、協同企画の「伝説のプロモーター」永島達司さんはぼやいていた、と星加さんはいう。彼女によると、永島さんは「もうからない。全部持ち出しだ。こんな赤字のコンサートは二度とやりたくない」と語っていた。
ビートルズへのギャランティーなど高額だった日本公演。大きなスポンサーとして読売新聞社、そして中部日本放送がついて、協同企画との3社で手分けして送金したのだという。1ドルが360円の固定レート、外為送金規制があった時代のことだ。
翌8月、ビートルズ最後のライブツアーとなる北米公演が行われた。親しくなった星加さんは特別なプレスパスを発行されて同行を許された。8月11日にシカゴに入り、翌12日のライブで幕を開けて、最終の8月29日のサンフランシスコ公演まで、その間に休暇はわずか4日間だけという「ものすごい強行軍」だった。
シカゴでは空港にビートルズを迎えに行くリムジンに星加さんは乗せてもらった。4人を乗せてホテルに向かう道すがら、車内で星加さんは彼らといろいろな話をした。
早めにシカゴ入りしていた星加さんは、ヌードで知られる雑誌「PLAYBOY」の発刊者ヒュー・ヘフナーの邸宅を取材してきたばかり。「ポールが興味津々で“プレーメイツはいたのか?”と聞いてきた。リンゴも大はしゃぎで、ビートルズも男の子なんだなと思いました」。
この北米ツアーは始まる前から暗雲が立ち込めていた。ジョンの「ビートルズはキリストよりも人気がある」という、いわゆる「キリスト発言」が7月末に米雑誌「デイトブック」で報じられ、騒ぎになっていたからだ。ジョンは神妙な面持ちだった。
とはいえ、ジョンのユーモア精神は健在だった。8月11日の夕方に記者会見が予定されていたが、その前に楽屋でビートルズの連中と星加さんは話をしていた。いつの間にかジョンとリンゴがいなくなり、星加さんはもっぱらポールと話していたという。
「すると、私の後ろから“ルミ、ルミ”と呼ぶ声がしたので振り返ると、すっぽんぽんのジョンが立っていました。シャワールームから出てきたばかりでした。私は“キャー”と叫ぶと、ジョンは“タオルを投げてくれ”というので、投げてあげました」と星加さん。
星加さんは続けていう、「他の女性記者たちも面白がって“私たちはジョンのヌードを見た”と話していました。私は(後に妻となる)オノ・ヨーコさんより先にジョンのヌードを見たのだと思って、今では(思い出して)にんまりしてしまいます」。
そして行われた注目の記者会見。プレスはジョンのキリスト発言の真意を聞き出そうといきり立っていた。ジョンは神経質だったが、ポールの態度が立派だったという。星加さんによると、ポールは「ジョンは黙っていて。ぼくに任せて」といって、もっぱら釈明を引き受けていた。会見が順調に進むと、ジョンの表情が明るくなったという。
ポールは4人の中で一番とっつきやすかったと星加さんはいう。「私が拙い英語で何か訊ねても、ポールは一つ一つ丁寧に答えてくれる。私が聞き直したりすると、ポールは紙に単語を書いてくれ、私が分かるようにしてくれました」。
ビートルズの’66年北米ツアーのハイライトは8月23日のニューヨークのシェイ・スタジアムでのライブだった。星加さんも経験した当事者だ。
「コンサートが始まるや、3階から女の子が何人もパラパラと降って来た。怪我人が出るのではないかと心配だったけれど、強いセーフティー・ネットが張り巡らされていました」。星加さんはブライアンと一緒にコンサートを裏で聞いていた。音がすごかったので、ブライアンは星加さんをスピーカーの後ろ側に連れていき、コーラを手渡す心配りをしてくれた。
このツアーの最終日、8月29日にはサンフランシスコのキャンドル・スティック・パーク公演が行われた。だが、当時は誰も「これがビートルズ最後のコンサートになる」とは知る由もなかった。
文・桑原亘之介