ビートルズへのあふれる愛をもってファンたちに寄り添ってきた「ザ・ビートルズ・クラブ」代表を務める斉藤早苗(さいとう・さなえ)さん。
ザ・ビートルズ・クラブは日本一いや世界最大のビートルズのファン・クラブである。前身の「ビートルズ研究会」が発足したのは1965年のこと。現在、会員数はおよそ5万人。存続期間、規模ともに世界一の名に恥じないファン・クラブだ。
「ファン・クラブの会員では40-50代が一番多いと思います。次にビートルズ世代の60-70代が多く、そして30代、最後に10-20代と続きます。(’80年に)ジョン(・レノン)が亡くなった後に入会した人が多いです」と斉藤さんは語る。
「年輩の人たちが戻ってきている感じです。それにティーンエージャーも増えている。おじいちゃんやおばあちゃんにレコード・プレーヤーとビートルズのレコードをもらったのがきっかけとか、父親にギターをもらって演奏を始めたという話を聞きます」
斉藤さんのビートルズとの出会いは中学生の時。ラジオから流れてきたビートルズの音楽は「あの頃の曲としては特殊だった」。
そのうちに映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』(当時の邦題『ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』)を友だちと見に行ったことで、斉藤さんはビートルズの「完全なるファン」になったという。
「当時、学校の各クラスに2名くらいのファンがいました。男性の方が多かったです。『リボルバー』が出る頃になると、レコードを貸し借りするようになっていました。お兄さんがいる人がビートルズとか洋楽のファンになることが多かった」。
斉藤さんは語る「(’66年の)ビートルズ来日を機に、東京大学内のビートルズ研究会が現在のファン・クラブの前身となったと聞いています。映画は映画館でしか上映できなかった時代ですから、当時としては珍しいファン・イベントです」。
「米ユナイテッド・アーティスツと交渉して、映画のフィルムを貸してもらいました。当時、映画上映時のビートルズ・グッズの販売も初めてのことでした。映画業界の興行を仕切る組合に挨拶して、上映会をやらせてもらいました」と斉藤さんは説明した。
フィルム上映が主だったことから同年、「ビートルズ・シネ・クラブ(BCC)」という名称に。今でもファンの間で語り草になっているのは、BCC主催で春、夏、冬と年3回、各地で行われた「ビートルズ復活祭」というイベントだ。
斉藤さんによると、日本中を行脚するビートルズ復活祭のことを知ったビートルズの最側近の一人でアップルの社長を務めたニール・アスピノールに「ぼくたちもバンを借りてイギリス中を回ったので同じだね」と言われたという。
70年代に本格的にスタートしたビートルズ復活祭だったが、90年代に入ると定期的に行わなくなっていく。ビデオが普及してビートルズの映像を見ることが容易になり、ファンが集まって行う上映イベントとしての復活祭の意味あいが変わったからだ。BCCというクラブの名称も’96年に「ザ・ビートルズ・クラブ」に改められた。
今や「伝説」ともいえる復活祭だが、リンゴ・スターの前のドラマーだったピート・ベストが初来日して、全国を一緒に回ったこともあった。’92年夏のビートルズ・デビュー30周年記念復活祭ではピートはファンたちと交流を深めた。
’99年にはビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンを招聘(しょうへい)した。石川県加賀市から地域活性化の目的で声がかかり、加賀市で開かれた野外での復活祭におよそ1万9千人が集まった。ビートルズのコピー・バンドの「甲子園」ともいえるコンテストが開催され、ジョージ・マーティンは審査委員長として加わった。
1,000を超えるグループから応募があり、優勝バンドにはロンドンのアビーロード・スタジオでのレコーディングができるという「賞品」が贈られた。
復活祭は展示会に衣替えして続いていく。展示コンセプトを変えながら、全国のデパートの催事場で、多数の直筆の歌詞や実際に着用していた服などが展示された大きなイベントとして展開され、ファンたちを喜ばせた。
そしてファンたちの熱いリクエストに応えて、2016年に復活祭が復活した。東芝EMIビートルズ担当だった石坂敬一さん、漫画『僕はビートルズ』の作者・かわぐちかいじさん、東芝音工でビートルズ初代担当ディレクターだった高嶋弘之さんがスピーチをした。
BCC時代から取り組んできたことの一つがロンドン・リバプール旅行団。斉藤さんは’79年に代表の座についたが、まず手掛けたのがこの旅行。「当時、参加者は約20名でした。リバプールに着くと地元を代表する新聞「リバプール・エコー」の記者が待っていて、日本のビートルズ・ファンがツアーでやってくるのは初めてだといって、写真を撮られ、インタビューを受けました」。
復活祭などのイベント参加者の約85%が男性だったが、旅行ではこの比率が逆転した、と斉藤さん。「ポール(・マッカートニー)が育った家では、住人が中に入れてくれ、紅茶をいれてくれました。ジョン、リンゴ、ジョージ(・ハリスン)の家にも行きました」。
斉藤さんは、お礼の意味で、次の旅行(’81)の時にはお土産を持っていったという。その時のツアーはロンドン、リバプールだけでなく、ジョンへの追悼の意を込め、ニューヨークも含まれていた。ジョンが暮らしていたダコタ・ハウスなどを訪れたという。
ポールの来日はファンの念願だった。ポールは過去の麻薬所持のことが問題視されて入国が難しいとされていたため、BCCは署名を集めた。’75年にポールの日本公演が実現間近になって法務省に却下されたことを受け、BCCは抗議のキャンドル行進を行った。
’80年にはポールの来日が予定されていたが、成田空港での大麻不法所持で現行犯逮捕されてしまった。それから待つこと10年。’90年春にポールのソロとしての日本初ライブが実現する。BCCは集めたおよそ20万人分の署名を法務省に提出し、その一部をポールに見せると「胸がつまった。すごいことだと思う。これが一番すてきな日本のお土産だと思っている。イギリスに帰ったらみんなに見せてあげたい。大事にするよ」と感無量でポールは答えたという。
最近のエピソードとして斉藤さんが披露してくれたのはハロウィーンの仮装のこと。「ポールのスタッフから“面白いアイデアない”と尋ねられ、“リンゴはハロウィーンにお面をかぶっていましたよ”と答えました。そうしたら、ポールも日本のステージでお面をかぶって登場したのです」。
ポールとは初来日の時の植樹祭やLIPA(ポールが提唱するリバプールの総合芸術大学)のパーティーや、東日本大震災に遭われた会員とのミーティングなど、意味のあるイベントを絶えず一緒に行っている。
また、「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ」も力を入れたイベントだ。2001年から2013年まで13回開かれた。目的は、ジョンの功績を若い世代にもっと伝えていこうということと、学校のない国の子どもたちのために学校建設費用を支援しようということだった。結果、中国、スリランカ、ギニアなど29カ国124校の建設を支援した。
参加ミュージシャンも豪華だった。浅井健一、井上陽水、忌野清志郎、宇崎竜童、内田裕也、奥田民生、桑田佳祐、クラウス・フォアマン、斉藤和義、坂本龍一、佐野元春、鈴木京香、Char、トータス松本、宮崎あおい、宮沢りえ、ムッシュかまやつ、山崎まさよし、吉井和哉ら枚挙に暇がないくらいの大物アーティストぞろいだった。ヨーコさんも毎回参加した。
斉藤さんがこれまでモットーとしてきたのは「こちら(ファン・クラブ)にとっては何万人もの会員様と接しているわけですが、会員の方は1対1の気持ちで接してくるわけで、そういう1対1という気持ちを忘れてはいけないと思っています」ということ。
「ビートルズの音楽が優れているということと同時に、彼らが発しているメッセージが素晴らしいので、若い人たちにももっと触れてもらいたい」と斉藤さんは語っている。
東京・笹塚に「Fab4ギャラリー」というスペースを設け、ジョンの衣装、珍しい写真やレコードなどを展示して、ファンの交流場所になっている。
文・桑原亘之介