今年で私は40歳になる。この節目に、何か特別な言葉を探しているわけではない。ただ、数字というものに、ずっと違和感を持ってきた自分として、今だからこそ見えてきたこと、感じていることを、静かに整理していきたいと思う。
20代の頃に思い描いていた40歳の自分は、もっと強く、迷いがなくて、すでに何かを「達成した人」になっているはずだった。
年齢以外にも、私たちが生きる現代社会には、「数字」が溢(あふ)れています。
経済成長率、出生率、自殺率、難民の数・・・。数字で説明された社会が、毎日画面に映し出されるたびに、その背景にある声が薄れていくように感じてしまう。もちろん、そういった数字を知ることは、社会を知るために大切なことだろう。
一方で、数字の中に、人々の息づかいや、生活の重みが埋もれてしまうこともあるということも事実ではないでしょうか。

たとえば、難民キャンプで出会った少女。彼女の名前を呼ぶと、かすかに笑って「私、看護師になりたい」と言ってくれた。国際レポートの中では「数百万の難民のうちの1人」として扱われるかもしれない。でも、私にとってはその笑顔も、まなざしも、はっきりと記憶に刻まれている。数字は背景を削(そ)ぎ落とすけれど、人は背景の中で生きている。
日本でも、多くの「見えにくい声」がある。貧困、孤立、介護、性差別など、報道ではグラフや%で語られてしまうけれど、その一つ一つには、必ず名前があり、日常があるのが事実だ。
私は俳優として、言葉を届ける仕事をしている。同時に、さまざまな現場を通して、語られない声にも出会ってきた。その中で私は何かを変えようと闘っているというよりも、ただ「目をそらさずにいたい」と思っています。
年齢という数字に、実は私は長く翻弄(ほんろう)されてきた。「この年齢ならこうあるべき」と言われることもあった。
若い頃は「未熟」だと扱われ、年齢を重ねると「もう若くない」と言われます。それは特に女性に対して、無意識に投げかけられている圧だと私は思います。
けれど本当は、何歳であっても、自分が望む生き方を選んでいいのでは? 年齢は誰かと比べるためのものではない。むしろ、自分がどんな経験を積み、どういう感情を抱いてきたかを、静かに記録するためのものだと私は思っています。
数字が多すぎる時代に、私たちは大事なことを見失いがちではないでしょうか。フォロワー数、アクセス数、年収、見た目への評価。数字は見やすく、共有しやすい。でも、そこに自分の「価値」をすべて委ねてしまうと、本当に守りたいものや、大切にしたい感情を置いてきぼりにしてしまう。
40歳を迎える私は、今、あえて静かに問い直したいと思っている。この社会で、私は誰として生きていくのか。何を選び、何を手放し、何を伝えていくのか。答えはまだ出ていない。
でも、わからないまま歩くことを、怖いと思いたくない。むしろ、答えの出ない問いと一緒に生きていくことでしか、見えない景色があると、今は信じています。
30代を過ごしてきた時間は、決して楽ではなかった。けれど、その揺らぎも含めて、自分の軌跡として残しておきたい。そして40代は、より自由に、よりしなやかに、自分の人生を編んでいきたい。
【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No. 41からの転載】

俳優・タレント・人権活動家。1985年イラン生まれ。幼少時代は孤児院で生活し、8歳で養母とともに来日。2020年にアメリカで国際人権活動家賞を受賞。









