-なるほど、そうでしたか。では逆に、普段の作品で家族を登場させることに何かこだわりはあるのでしょうか。
自分でホンを書く以上、自分の何かを切り売りしているようなものなので、気付かないうちに自分の中の何かが出ているんでしょうね。逆に、出ないとあまり面白くならないでしょうし。そういう意味では、監督6作目ぐらいのとき、取材で「吉田さんの描く家族がいつも片親なのはなぜですか?」と聞かれたことがあったんです。でも、全然自覚がなかったので、フィルモグラフィーを振り返ってみたら、確かに両親そろっている映画がない。だいたい母親がいなくて、女の子でも男の子でも、ほとんどお父さんと暮らしているパターンばかりで。
-前作『空白』もそうでしたね。
そうですね。それで、母親不在の理由を考えているうちに気付いたのが、自分が子どもの頃、家族がそろっていた記憶がないんです。両親と一緒に食事した記憶も、6、7歳ぐらいまで。だから、自分の中では誰かがいないのが、自然な家族の風景なんだな、と。一本だけならまだしも、全部だと思ったら、さすがにぞっとしましたけど(笑)。それだけ俺にとって、家族の欠落って根深いものなんでしょうね。
-「家族の欠落」と「成就しなかった恋愛」には通じるものがある気がします。
何か欠けているものが好きなんでしょうね。その欠落を埋めようとするんだけど、埋まるとやっぱり面白くない。自分が欲しかったものとか、行きたかった場所とか、そういうものを手に入れた瞬間、不思議なことに、いつも「こんなものか」と思っちゃうんです。だから、経験を積めば積むほど、面白さが減っていきますよね。その対策として、いろんなことに挑戦しようと思って、毎年「やらなくていい100のこと」というリストを作って、日々どうでもいいことをこなしています(笑)。
-この作品にはYouTuberやネット社会を風刺する側面がありますが、同時に吉田監督は「YouTuberに対するリスペクトを込めた」ともコメントしています。本作を通じて、ネット社会やYouTuberに対する考えは変わりましたか。
俺も古い人間なので、ちょっと前まで「新しいコンテンツは認めたくない」みたいな気持ちがあったんです。でも、その世界の可能性に気付いたら、いつの間にかめちゃくちゃ見るようになっていて。そうすると、第一線の人たちが相当な努力をして、才能もあることが分かってくる。映画も生まれた直後は、舞台の人間から「落ちぶれた役者が出るもの」と低く見られていたことを考えると、歴史はそんなふうに新しいコンテンツを見下すところから始まるんだな、と。それに気付いてからは、できるだけフラットな目線で見なきゃ、と考えるようになりました。でも根っこには、「映画は新しいコンテンツに負けない」みたいな気持ちもある。その共存する感じが、この映画を作る上ではちょうどよかったんでしょうね。
-ただ風刺をしているだけではないと?
そうですね。そういう変化はどんどん早くなっていくはずなので、「そんなもん興味ねえよ」とばかにして守りに入るより、共存してお互いのいいところをトレースし合う方がいいんじゃないかと。だから俺も、最近は頑張ってTikTokを見るようにしています。気付くと、結構見ている上に、自分用にカスタマイズされていって、次々と興味のある動画が上がってくる。よくできたシステムだなと。そんなふうに、興味のないこともなるべくやってみるようにしています。
(取材・文・写真/井上健一)