カルチャー

日本のクレー射撃競技トップを走る中山 感謝と執念で、日本女子最多5度目の夏季五輪へ

 クレー射撃の女子トラップで東京オリンピック代表に内定している中山由起枝(日立建機)。夏季大会5度目の出場は、柔道の谷亮子と並び日本の女子選手で最多になる。競技人生の集大成と位置付ける東京で、ベテラン選手はどんな結果を残せるか。世界的には注目度が高い射撃競技だが、日本国内ではマイナースポーツ。サポートしてくれる所属先の名を背負い、自らの競技生命を永らえてきた原動力は、どこから生まれてくるのだろうか。

東京大会出場が内定している中山
東京大会出場が内定している中山

未経験、3年でシドニー出場

 1996年のアトランタ・オリンピック時、日立建機は社内一体感、社員の士気高揚を目的に会社のシンボルスポーツの創部を計画していた。日立グループの各スポーツ部の関係者に相談し、クレー射撃部を立ち上げることになった。ユーザーである建設会社などの顧客にクレー射撃の愛好者が多いことも一つの理由だった。選手発掘は、日立情報システムズ(当時)のライフル射撃部監督だった白木大二郎氏が、同じ日立グループの日立高崎ソフトボール部の監督だった宇津木妙子氏に相談したところ、中山の名前が上がったという。当時、埼玉栄高のソフトボール選手として活躍する中山を見た白木氏と日立建機は、その才能を見出した。誘われた当初は戸惑ったものの「競技者としてオリンピックをめざすことに変わりはない」と高校の恩師の言葉に後押しされ、中山は決意を固めた。

 大人たちの見立てと中山の才能と努力がぴったりと重なり、経験わずか3年で2000年のシドニー大会に出場。結果は14位で、初めて「挫折」を味わった。一度競技から離れ、結婚、出産、離婚を経験。競技に復帰後、04年のアテネ大会には叶わずも、アジア選手権、ワールドカップと優勝を重ね、08年の北京大会の出場を手にした。結果は小差の4位と惜しくもメダルを逃した。

ニッコー栃木綜合射撃場で練習する中山
ニッコー栃木綜合射撃場で練習する中山

選手、学生、母親の3役

 日本のトップクラスを走り12年のロンドン(15位)、16年のリオデジャネイロ(20位)両大会に出場。だが、この間、生きていく上での危機感が常にあった。競技をやめれば生活が成り立たなくなるため「娘が大学を出るまでは」と自らを奮い立たせた。

 同時に競技者としての将来のために、経験をどう体系付け、理論化するか。社会人大学院生として順天堂大学大学院に通い修士号を取得した。栃木県の射撃場で日中練習し、夜間授業を受けに東京都文京区のお茶の水キャンパスに通い、茨城県の自宅に戻るのはいつも深夜。「朝は5時半に起きて娘の弁当づくり。毎日が必死でした」。会社の看板を背負いながらスポーツを続けることは、想像以上の重圧だ。しかも、中山は並行して子育ても勉強も手を抜かなかった。「自分でやると決めてチャレンジしたこと。土壇場に強いというか、わたしらしい」と明るく話す。

 この強さが発揮されたのが、東京大会の出場権を獲得した19年のアジア大陸選手権大会。これが最後の国際大会になるかもしれないと決めて臨んだ。初日は25点中21点と出遅れたが、最終ラウンドは満点。決勝進出を懸けたシュートオフも勝ち抜いた。「奇跡のような場面の連続だった」と振り返り、射撃を続けるために支えてくれた多くの人に感謝の気持と東京で晴れ姿を見せたいとの「執念」が最後に勝ったという。

東京大会の出場権を獲得したアジア大陸選手権大会の中山 (写真提供 日本クレー射撃協会)
東京大会の出場権を獲得したアジア大陸選手権大会の中山 (写真提供 日本クレー射撃協会)

建機セールスにも貢献する人気者

 4度も出場したオリンピックの魅力とは何か。「選ばれし者だけが立つことができる高揚感。これまで努力してきた活動を多くの皆さんに見てもらう最高の舞台」という。最近、東京大会のトラップ団体(男女混合)でペアを組む大山重隆(大山商事)と再婚した。「東京大会が終わるまでは、お互いに拠点を移さず練習したい」ということで、新生活のスタートは先になる。

 インタビュー中、笑顔でハキハキと受け答えをする中山選手に、さぞや射撃仲間では人気があるだろうと聞いてみると「射撃仲間には建設業をされている方も多く、結構、建設機械の相談を受けたりします」と言い切った。日立建機の関係者によると、年に数台もの売上成績があるという。

愛用の散弾銃を前にした中山
愛用の散弾銃を前にした中山