カルチャー

大戦前夜の一瞬の輝きと どす黒い予感 【コラム 本の森 田村文】

〈水枕ガバリと寒い海がある〉

 西東三鬼さいとうさんき(1900〜62年)の代表句である。1935年の作で、肺浸潤による熱に苦しみ、死の影が迫るのを感じて詠んだとされる。小林恭二の『三鬼』は、新興俳句運動の中心人物の1人だった西東三鬼を主人公に、虚実を織り交ぜ展開する歴史エンターテインメント。舞台は大戦前夜の1940年である。

 5月3日午後、三鬼が東京・道玄坂を登っている場面から始まる。まもなく40歳になる三鬼の風貌は、胡散臭い中年男といったところか。彼はいま厄介事を抱えている。一つは家庭の問題で、妻と息子が家を出て行った。さらにとびきり厄介で不穏なのは、尾行している男たちがいることだ。どうやら複数の国家機関による尾行で、うち1組は特高のようだが、それ以外は何者なのか。

 邸宅に着く。句会と遊びを交ぜたような集まりに参加するためだ。音楽家によるピアノや歌の後のおしゃべり。話題はヨーロッパの戦争や日中戦争のことにも及ぶ。

 やがて三鬼に会いに若い俳人仲間の三橋敏雄が訪れて告げる。「一斉検挙です。とうとう東京のメンバーにまで手が伸びました」。誰が捕まったのかを聞くと、こう答えた。「先生と僕以外の全員です」

 治安維持法下で起きた弾圧事件の一つ「京大俳句事件」。40年2月に俳句同人誌「京大俳句」の関西在住の主要同人が逮捕されたのが第一次の事件で、今回が第二次。だが、なぜ「京大俳句」の最重要俳人で新興俳句運動のキーマンでもある三鬼は逮捕されないのか。謎が徐々に明かされて行く。

 

『三鬼』小林恭二 著 ・368ページ、2750円、講談社

 高浜虚子主宰の俳誌「ホトトギス」を頂点とする花鳥諷詠の伝統俳句と、それに対抗する形で生まれた新興俳句運動。両勢力のぶつかり合いもあって活況を呈する俳句界の騒擾が、国家の表現弾圧の大波にのまれていく。なぜ、こんな小さい詩形が危険視されたのか。俳句の言葉にどんな力があるというのか―。

 そんな問いを抱えつつ、物語は日本とシンガポールを行き来する三鬼の運命を追う。友情や純愛、自由を求める精神や拷問の恐怖もある。高浜虚子や三橋敏雄、石田波郷といった俳人だけでなく、シンガポール攻略で知られる山下奉文、特高部長から警視総監になった安倍源基らも出てきて三鬼と会話することで、三鬼の飄々としたトリックスターぶりが際立つ。

 終盤、三鬼が逮捕直前に仲間たちと海辺で過ごす場面が胸に迫る。巨大な暴力の渦に巻き込まれる直前の一瞬の輝きと、どす黒い予感。1940年という時代の空気がそのまま、流れ込んでくる。

【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No.40からの転載】

(共同通信編集委員 田村文)