社会

前町長は「中国のスパイ」なのか 【水谷竹秀✕リアルワールド】

 「中国から来たスパイ」との疑いを持たれ、町長を解任された謎の女性を巡る騒動が、フィリピン国内外で波紋を広げている。女性は、ルソン島タルラック州バンバン町のアリス・グオ前町長(33)。調査を続ける上院公聴会では、スパイ疑惑に関連した身元上の不信点などが次々と明らかになったが、その背景を探ると、現政権と前政権が繰り広げる政争の実態も浮かび上がる。

 発端は今年3月、同町役場付近にある「POGO」と呼ばれるオンラインカジノ施設が人身売買の疑いで摘発されたことに始まる。その際、この施設で強制労働をさせられていた比人や中国人、ベトナム人ら800人以上が救出された。施設を運営していたのは中国系企業で、グオ前町長も経営陣の1人であることが発覚。5月に召喚された上院公聴会では、身元問題が徹底的に追及された。

 捜査当局によると、グオ前町長の指紋が、2003年1月に比へ入国した当時13歳の中国人と一致した。この結果、比人になりすまし、町長にまで上り詰めた中国人スパイとの疑惑をかけられたのだ。グオ前町長は「私は比人で、農場で育った。中国のスパイではない」と反論したが、町長を解任された。7月半ばには国外へ逃亡し、9月上旬、インドネシアで身柄を拘束された。比に強制送還されてから再開した上院公聴会では、出国記録がなかった点を突かれると「ヨットで逃げた」と証言し、物議を醸した。

 中国人客を対象にしたオンラインカジノ「POGO」は、親中路線を取っていたドゥテルテ前政権下で急速に普及した。ところが22年6月に就任したマルコス大統領は、親中から新米へと外交方針を切り替え、人身売買の温床とされるPOGOの摘発に各地で乗り出した。その一環でバンバン町の施設にも捜査の手が及んだのだ。

 しかも副大統領は、ドゥテルテ前大統領の娘、サラ氏。教育相を兼任していたが、今年6月に突然、辞任を表明し、マルコス大統領との関係に亀裂が生じた。グオ前町長の騒動は、現・前政権の対立が激化する中で起きたのだ。

 グオ前町長が逮捕される直前の8月末には、南シナ海のサビナ礁で、フィリピンの巡視船が中国海警局の船に衝突され、両国間の緊張が高まった。中国海警局の報道官は、同海域の主権を主張した上で「比の船が危険な方法で意図的に衝突してきた」と非難した。しかし、同時期に比国内で話題になっているグオ前町長のスパイ疑惑に関して、中国側の反応はこれまでに確認されていない。つまり前町長の騒動は、外交問題にまで発展する気配がなく、国内の政治問題にとどまっているのだ。

 インドネシアで前町長の身柄を拘束した比入国管理局の幹部は、私の取材にこう答えた。

 「前町長は中国人だが、スパイだとは思わない。なぜなら本当にスパイなら、われわれが捕まえることはできなかったはず」

 果たして真相やいかに。

【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No. 41からの転載】

水谷竹秀(みずたに・たけひで)/ ノンフィクションライター。1975年生まれ。上智大学外国語学部卒。2011年、「日本を捨てた男たち」で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。10年超のフィリピン滞在歴をもとに「アジアと日本人」について、また事件を含めた現代の世相に関しても幅広く取材。