2011年3月11日。あの日から10年が経ちました。2万人近くもの死者・行方不明者を出し、戦後最悪の自然災害となった東日本大震災。私たちはその教訓をしっかり生かせているでしょうか。
大災害にどう備えるか――それを考えるときに参考にしたいのは、実際に東日本大震災に直面した方々の声です。そこで今回は、10年前の3月11日、東北で自らも被災した保険のエキスパート3人にお話をうかがいました。「あの時、何が起こったのか」「あれから何が変わったのか」「いま何を伝えたいのか」を、ストレートに語っていただきましょう。
「あの時、何が起こったのか」
損害保険ジャパン株式会社(以下、損保ジャパン)の保険代理店 株式会社東北安田(宮城県気仙沼市)の代表取締役 生駒正博さんは、保険に携わって今年で34年。あの日は、仕事のため車で高速道路を移動中でした。
「福島県の須賀川市あたりを走っていた時です。突然、すごい揺れに襲われました。宮城県人は地震には慣れているんですが、車がバウンドするような強烈な揺れに驚きました。すぐに高速道路が閉鎖になり、国道で気仙沼にUターンし、車のテレビで津波が押し寄せる様子をライブで見ていました。道路も混乱していて、3時間で来た道のりを戻るのに13時間半かかり、家に着いたのは朝の4時半ごろでした」
気仙沼市で自動車販売・整備の傍ら自動車保険の代理店も行っている株式会社菅野自動車 代表取締役 菅野潔さんからも、震災時の状況を伺いました。
「猛烈な揺れが襲ってきたのは、会社でデスクワークをしている時です。歩けないほどの強い揺れが少しおさまってきたので被害がないか工場内を見回っていましたら、津波警報が出まして、徐々に避難する人で道が渋滞してきました。その様子を窓から見ていると、ふと先のほうの交差点を一軒家が津波で流されていくのが見えたんです。これは大変だと思い、20人ほどの社員全員、会社の2階に上がったのですが、すぐに津波が2階にも入り込んできたので、慌てて机などを積み重ねて皆で会社の屋根に上がりました。周りを見渡すと津波が町をのみ込んでいるのが見えました。そうこうするうちに火事が発生し、会社も火に囲まれました。幸い道路の向かい側に4階建ての病院があったので、はしごの代わりになりそうな鉄骨や病院に偶然あったゴムボートを使って、何とか全員無事に病院の建物に移ることができました。そして数日間、避難場所で生活をしました」
損保ジャパン 東北保険金サービス部 仙台火災新種保険金サービス課主任の沼田真理子さんは、当時、自動車の保険金支払い部門に所属していました。
「その日は仕事で接骨院の見学会に行っていました。経験したことのない大きな揺れでしたし停電になったので、これは大変だと思いました。直後は家族に電話してもつながりませんし、非常に不安でした。なんとか会社に戻ると近くの多くの人が公園に避難しており、そこで同僚と再会し、すごくホッとしたのを覚えています。
一番大変だったのは食料の確保です。金曜に震災が起こり、土日を何とかしのぎ月曜に出社してみると、同僚たちも会社に来ていました。そこで、あそこのスーパーがやってるらしいとか、あの八百屋さんがやってるらしいと情報交換して、皆で買い出しをし、炊き出ししたり、という状況でした」
それぞれに大変な経験をした3人ですが、仕事ではどんな苦労があったのでしょうか。生駒さんの会社は、海の方向に高台の中学校があり、それが防波堤のようになって津波の直撃を免れたといいます。
「まずは混乱を防ぐために情報の共有化を図ろうと、事務所にコンクリートパネルを二つ立てて、亡くなった人の名前や新聞の切り抜きなどさまざまな情報を貼りました。お客さまも駆け込み寺のように来ましたから、お客さまと従業員とで情報を共有することが最初の務めでした。
お客さまが毎日、何十人もいらっしゃいましたが、多くの人が求めていたのは水でした。気仙沼市立病院が近かったせいか、うちは水道が出たので、水をお分けしました。そして会社の車を運転して水を入れたお客さまを送り迎えしていましたが、そのうちガソリンが手に入らなくなって、それができなくなったのが一番つらかったですね」
会社が壊滅状態になった菅野さんは何から始めたのでしょうか。
「工場には修理や車検などでお客さまの自動車をたくさんお預かりしていたのですが、全部津波で流されてしまいました。病院に避難している期間にお預かりしていた自動車のリストを作り、お車を流出させてしまったことをお詫びに歩くのが大変でした。ほとんどのお客さまはしょうがないよと言って下さいました。なかには使える自動車を探してほしい、自動車を使えるように修理してほしいという声もあったので、自宅の庭先に簡易テントを建てて、出来る限りの修理対応をしました。当時使用していたパソコンが流されてしまいましたので、保険代理店としては、自賠責保険の解約をアドバイスするぐらいしかできませんでした」
沼田さんは、損保ジャパンが立ち上げた災害対策室に駆り出されました。
「災害対策室は被害に遭われたお客さまの受付から支払いのエントリーまで一括して対応する部署です。災害対策室に入った時は、自分にできるのは率先して仕事を処理することくらいでしたので、もどかしい気持ちがありました。しかし、代理店や整備工場の方の中には、ご自身も被災しているのにも関わらずお客さまの心配をして、安否確認の連絡をとったり、自ら積極的に訪問をされている方が多く、励まされました」
「あれから変わったこと」
未曽有の大災害を経験して、3人は何を思い、何がどう変わったのでしょうか。
仕事に対する使命感が大きく変わったと話すのは生駒さんです。
「保険の勧誘は、昔から義理・人情・プレゼントで慣習みたいに行われてきました。そうではなく、お客さまに必要だと思う内容をきちっとお話させていただき、最終的に選ぶのはお客さまだというスタイルでやっていこうという使命感が一層強くなりました。後でお客さまに『説明してくれなかったね』『地震保険を勧められなかったね』とは絶対に言われたくないからです。
お客さまの意識も震災前震災後では大きく変わりました。震災前は付き合いや義理で保険に加入する人が多かったように感じますが、震災後は『保険に入っていてよかった』と感謝されました。我々の存在意義が震災によって証明されたなと思いました」
有事への対応を常に心がけるようになった菅野さんは、人の気持ちの変化もあったと言います。
「会社は津波が来てもほぼ影響がないだろうと思われる場所に移転しました。実は移転した年に洪水の被害があり、台風19号の時も浸水がありましたが、そういうときにも迅速な対応方法を社員と共有できるようになりました。
震災後には人の気持ちの変化もあったように思います。例えば車同士が細い道ですれ違ったりすると、震災前はどちらかというと自分が先にという車も多かったように思いますが、震災後は譲り合いの精神が生まれ、相手の車を待ってくれる、こちらも待とうとする風に変わった気がします。私もいろいろな人に助けられて仕事を再開できましたので、人間というのは捨てたものじゃないと思いますし、人に対して優しい気持ちで接したいと思っています」
沼田さんも、仕事の仕方が変わったといいます。
「震災直後、我慢強く保険金が支払われるのを待ってくださるお客さまや、手続きが思うように進まないと怒りっぽくなるお客さまなどいろいろなお客さまへご連絡しました。その時、お客さまの状況をしっかり理解したうえで、ご納得いただける説明を心がけたり、共感する心をお客さまにお伝えしたりすることで、お客さまが気持ちをフラットにしてくださる瞬間を感じることがあったのです。それ以来、お客さまの気持ちに寄り添うことをいっそう心がけるようになりました。
個人としては、震災によって世の中に当たり前のことって無いんだなぁと強く思わされたので、感謝だとか『ありがとう』という気持ちを、家族や友人、同僚にも、そう感じたときにしっかり伝えたいという気持ちが強くなったことが、自分の中では大きく変わった部分です」
「いま伝えたいこと」
あれから10年。全国的な新型コロナウイルスの感染拡大などもあって、東日本大震災の風化を危ぶむ声も聞かれるようになりましたが、3人は東北ではまったく風化などしていないと、口をそろえて語ります。では、10年が経ったいま、防災・減災や“万が一の備え”を踏まえ、3人が伝えたいこととは何でしょう。
根本的な原則から話してくれたのは生駒さんです。
「自助・共助・公助と言いますが、まず最初は自分で自分の身を守れるように心がける。次に近所・コミュニティで助け合う。そしてそれを市・県・国が支えるというこの3つの三角形が崩れないように、バランスよく作っていけたらと思いますし、皆さんにも意識していただきたいです。
最も重要なのはライフラインの確保です。電気・ガス・水道が使用できなくなってしまうことを必ず想定して下さい。我々は震災後に発電機を購入し、灯油もストックするようになりました。飲料水だけでなく身体を洗ったりトイレを流したりする水も必要ですから、その水もポリタンクに入れて保管しています」
菅野さんは、避難の際の重要な考え方を教えてくれました。
「東日本大震災では信じられないようなことが起きましたので、あらゆることを想定してしっかり備えることが大事だと思います。特に、一人ひとりが自分の命を守る行動をとる、とれるということが一番大切だと思います。この辺では『津波てんでんこ』といって、てんでんこはそれぞれにという意味なんですけれども、(津波はあっという間に来るので)それぞれが自分の命を守る行動を直ちにとりましょうということです」
実は、東日本大震災が起きる前は、3人とも防災の特別な準備はしていなかったそうです。その後悔が、沼田さんの言葉にもにじみます。
「震災前に飲料水や非常食を全く準備していなかったので、やっておくべきだったと非常に強く感じました。現在は水や非常食はもちろん、懐中電灯やラジオ、電池といった防災グッズも用意して、使えるか定期的に確認しています。防災グッズを準備しておけば、いざというときはこれを持って避難所に行けばいいんだと安心できます」
では、最後に保険についてもそれぞれ語ってもらいましょう。地震保険について生駒さんが経験を交えて力説します。
「震災前、東北大学の今村教授が30年以内に地震が99%来ると明言していましたから、それをお客さまに伝えて、地震保険の加入率が全国平均で50%前後というときに、うちでは72.3%の方に加入していただいていました。ほとんどの方が被災しましたが、多くの方に補償をお届けすることができました。地震保険をお勧めするのは、保険代理店の使命だと思っています」
自動車保険について話すのは菅野さんです。
「自動車保険は、津波ということではなく自然災害を受けたときに対応できる保険があるということをしっかりお客さまにお伝えしたいですね。車両保険で補償されない地震・噴火・津波に対応する特約もあります。防災グッズをそろえるような感覚で、自動車保険の特約を検討されてみてもいいと思います」
沼田さんは保険全般の大事なポイントを指摘します。
「保険は万が一の大切な備えですので、お客さまには、ご自身が加入している保険の内容をしっかり把握しておいていただきたいと思います。もちろん我々も、お客さまの保険はこういう内容ですよとお伝えしつつも、こういう補償もプラスしておくといいですよとしっかり提案しておく必要があるなと思います」
地震大国・日本では、その後も熊本地震が発生し、今後も首都直下型地震や南海トラフ地震などの大地震が予想されています。さらに気候変動による豪雨や台風も毎年のように発生しています。災害は、もはや避けられないものとして捉え、どう備えるかが重要になってきています。あの大災害を風化させないためにも、1年に1度、身近な人と一緒に未来を考える、そんな日を作ってもいいかもしれません。
損保ジャパンでは、防災・減災の意識向上と自然災害への備えを呼びかける「“備えあれば憂いなし”みんなのソナウレ意識向上プロジェクト」を展開中です。防災グッズが当たるSNSコメント投稿型キャンペーンや楽しみながら防災知識が得られるオンライントークライブ、アカデミックに防災・減災を考えるオンラインセミナーなどを実施しています。ぜひ、それらに参加して、“備えあれば憂いなし” の意識を高めましょう!
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