全編通してないでいる。遠くに風が吹いているのが分かるが、観客がいる波打ち際はとても静かだ。黒澤明監督の『生きる』を知る人にとっては完璧なリメーク。知らない人にとっては「カズオ・イシグロ」文学の味わいを全く別の作品の上で楽しめる、静かで骨太な物語だ。原作の力とイシグロの脚本、1950年代の英国という舞台、そして名優ビル・ナイの抑制された演技がすべてを美しくまとめあげた映画、『生きる-LIVING』(オリバー・ハーマナス監督)が公開された。
役所の市民課で課長として働くウィリアムズ。妻に先立たれ、同居する息子夫婦とはあまりしっくりいっていない。単調なルーティンをこなすだけの仕事に情熱もない。ただ実直に、孤独に日々をやり過ごしているだけ。だが先が長くない病を医師に宣告され、息をしているだけで「生きて」いないかのような生活を変えようと、その方法を探し始める。貯金を引き出し、旅先で出会った作家と遊び歩いてみるが満たされない。だが、職場の部下だった女性と屈託のない明るい会話を続けるうちに「やり遂げたいこと」が見え、職場に戻っていく。
子どもの頃から「紳士」になることが夢だったウィリアムズは、誰が見てもまぎれもない紳士として生きている。だが、周囲に認められる「紳士」というスタイルではなく、誰に認められなくても、自身が納得できる「行動」こそが、満たされないと感じる渇望の源だったのだと気付く。
話の筋も、そこに見え隠れする小道具や風景、主人公の立ち位置も原作に忠実だ。ただすべてのトーンが抑制され、原作を忘れさせるほど骨のある“英国の物語”になっている。新入りの部下、ピーター(アレックス・シャープ)との、距離を保ちつつも互いの中に誠意を認め合う関係が、凪(な)いだ波間で陽光を受ける船のように、世代を超えた希望をつないでいる。