社会

テセウスはいつ現れる? 【沼野恭子 リアルワールド】

 「この殺戮機械を止めることができる唯一の人間ーそれはあなたです、ロシア連邦大統領。もういいかげんこの虐殺をやめてください」

 ロシア語で「肉挽き機」を意味する言葉(殺戮機械)を用いて、プーチン大統領にウクライナでの戦争停止をこう呼びかけたのは、ロシア出身のアンドレイ・ズヴャギンツェフ監督だ。2026年5月におこなわれたカンヌ国際映画祭の授賞式でのこと。9年ぶりにメガホンを握った「ミノタウロス」でグランプリ(審査員賞)を受賞したズヴャギンツェフは、授章式の舞台でスピーチをこのメッセージで締めくくったのである。

 彼は21年にモスクワで新型コロナウイルス感染症にかかって重篤な症状に陥り、治療のためドイツに移送された。22年2月にロシアがウクライナへの全面侵攻を始めたときは、まだドイツの病院に入院していたが、退院してからも帰国しないことに決めたという。

 同年9月にロシアで部分的動員令が発動され、国内に大きな混乱を巻き起こした。この社会的な事象にヒントを得たズヴャギンツェフは、フランスのクロード・シャブロル監督による映画「不貞の女」(1968)の筋立てを取り込んで、2026年春に「ミノタウロス」を完成させた。

 物流会社の社長をしている裕福な主人公が、動員令により、自分の会社から14人の従業員を兵士として供出するよう命じられる。ギリシャ神話に登場する牛頭人身の怪物ミノタウロスは、クレタ島の迷宮に閉じ込められたまま、生け贄として送りこまれる14人の若者を食らって生きていた。数字が一致していることから明らかな通り、従業員を選び出すとは、彼らを戦争というモンスターの人身御供に差し出すということに他ならない。

 同時に主人公は妻の不貞に気づき、家庭崩壊の危機をも経験することになる。公的・神話的な物語と、私的・世俗的な出来事が絡み合い、まるで迷宮に迷いこむかのようだ。

 ロシア大統領へのズヴャギンツェフ監督の勇気ある呼びかけに対して、9月、ロシア法務省は、彼に実質的なスパイを意味する「外国の代理人」というレッテルを貼るという仕打ちに出た。「ロシアの公的な決定や政策について信頼できない情報を拡散した」という理由をでっちあげて。

 インタビューで映画評論家アントン・ドーリンに「今どんな気持ちか」と尋ねられ、ズヴャギンツェフは比喩を用いてこう答えている。
 「黙っているわけにはいかないという気持ちがメインディッシュだとすると、恐怖や怒りは付け合わせのようなものだ。どこもかしこも叫び、血にまみれているときに、口をつぐんでいるわけにいかないじゃないか」
 ミノタウロスを退治したアテナイの王子テセウスは、いったいいつ現れるのだろうか?

【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No.38からの転載】

 

ぬまの・きょうこ 1957年東京都生まれ。東京外国語大学名誉教授、ロシア文学研究者、翻訳家。著書に『ロシア万華鏡』『ロシア文学の食卓』など。