5月から10月にかけて、商船三井さんふらわあの定期船による特別便、通称「昼の瀬戸内海カジュアルクルーズ」に全10回乗船した。
この定期船は大阪―別府間を運航する。通常、夜に出航するため移動中はほとんど外の景色が見えない。このクルーズ便は日中の移動なので、さまざまな島々がはっきりと見える。移動には12時間を要するが、毎度デッキでの島案内と、船内イベントとして開催される「瀬戸内講談」をやらせてもらっていたので、あっという間に時は過ぎた。
「瀬戸内講談」では、瀬戸内海とその島々に生きた人々の物語を伝えたいと思っていた。まずは、聴講者さんにこんな投げかけをする。
「さあさあ、みなさん。瀬戸内海はなぜ島が多いと思いますか」
私も瀬戸内海に来るまで知らなかった問いだ。
「ヒントは、瀬戸内海は最終氷期の頃まで陸地でした。1万年ほど前から海面が上昇する縄文海進が起こり、5千〜6千年前に今のように海になったのです」
実際、瀬戸内海の漁師さんから、底引網漁でナウマンゾウの骨がかかったと聞いたことがある。島々は、かつて山々の天辺(てっぺん)だったのだ。だから急峻で平地が少ない島が多い。
「島が多いと潮流が早くなり、航海技術に優れた人たちが活躍するようになりました。村上海賊はご存じですよね!」
みなさんの顔がパッと明るくなる瞬間で、私も嬉(うれ)しい。だけど、すぐに村上海賊の話とはならない。古代、瀬戸内海を縦横無尽に行き来し、淡路島を拠点とした海の民の話から始める。そして中世に、芸予諸島を拠点に瀬戸内の覇者となった村上海賊、近世に活躍した塩飽(しわく)諸島の塩飽水軍と、順に話す。
1860年、日米修好通商条約の批准でアメリカへと渡った咸臨丸(かんりんまる)に、塩飽の水夫たちが多く乗った。その翌年に、幕令により咸臨丸は急ぎ太平洋上の小笠原へ向かう。アメリカからの帰路、「小笠原は英国領になっている」と聞かされたからだ。
「以前、父島にある咸臨丸水夫のお墓参りをしたのですが、墓石に出身地が刻まれていました。まもなく見える塩飽の高見島と佐栁(さなぎ)島です。故郷に帰りたかったことでしょう」
1876年に小笠原島が正式に日本領となるまでの歴史で、忘れてはならない事実だ。島に生き、海を越え、歴史という海原に沈んでいった先人たちの物語に目を向けたい。
「ぜひ、その物語に思いを馳(は)せ、島々をご覧になってくださいね!」
【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No. 46からの転載】

KOBAYASHI Nozomi 1982年生まれ。出版社を退社し2011年末から世界放浪の旅を始め、14年作家デビュー。香川県の離島「広島」で住民たちと「島プロジェクト」を立ち上げ、古民家を再生しゲストハウスをつくるなど、島の活性化にも取り組む。19年日本旅客船協会の船旅アンバサダー、22年島の宝観光連盟の島旅アンバサダー、本州四国連絡高速道路会社主催のせとうちアンバサダー。新刊「もっと!週末海外」(ワニブックス)など著書多数。









