-近くで監督を見ることで、演技的には助かったこともあるのですか。
そうですね。こんな感じかなというのはありました。でも、監督っぽい人をやろうという意識は全くなかったです。桐子は映画を撮りたい人で、それで監督になったというだけなんだと思っていたので。だから「監督ってこういう人だよね」という感じはなくて、ただ自分がやりたいことで頭の中を100パーセントいっぱいにしている人が、監督と言われているだけなんだと。だから別に何かを参考にしたわけではないし、監督も「桐子が私に似ているって思うところがあるかもしれないけれど、別にまねしなくていいからね」と言っていました。
-現場の雰囲気はいかがでしたか。
今回は、監督以外の藝大の皆さんとも一緒に仕事をしましたが、もちろん年齢もバラバラだし、出身も違うんだけど、皆さんが一つのものを一生懸命作ることに集中してやっている感じがしました。だからエンディングが近づくに連れて、桐子的にも、個人的にも、みんなで一緒に頑張ったよねみたいな気持ちが湧いてきました。
-劇中の桐子の映画は完成したんですよね。
おかげさまでロードムービーができました。それに関しては、自分で別の脚本を書いてみました。こんな映画にするんだみたいなものを。それを撮影前の準備段階として早織さんとも共有して、桐子はこういう作品を撮ろうとしていると自分で考えてみました。それが映画の中に生かされたかどうかは分からないけれど、自分の中に何かがあった方が演じやすいし、私と早織さんとの間にも共通の何かがあった方がいいと思ったので。
-「走れない人の走り方」というタイトルに込められた思いについて、どのように感じましたか。
このタイトルは、ちょっと自虐的というか、マイナスっぽいと思われるかもしれませんが、そうではなくて、誰しも日々の生活があってそれぞれの毎日を進んでいますが、その進み方はさまざまで映画を撮るために必死に生きる桐子の進み方はこれなんだ、ということです。それは「他の人と違っていてもいいよ」という意味にもつながるのかなと思いました。
-映画の見どころも含めて、観客へのアピールをお願いします。
映画体験としてすごく楽しいと思います。普通は、誰もが「この映画はこの人の話なんだろうな」って分かるじゃないですか。でもこの映画は、予想とは全く違う世界を映すんです。実際、映画を見ていると、主人公がちゃんと真ん中にいて、そこにはすれ違う人がいて、受付をやっている人がいてみたいに、いろんな人が出てくるけど、彼らの話は始まらないですよね。けれどもこの映画は、予期せぬタイミングでカメラが全然違うところに付いていったり、急に全く知らない人が画面に入ってきたりもします。簡単に言えば、すごく自由だなと思っていて、自由に映像を撮れることを楽しんでいる作品だと思います。それは多分、監督やカメラマンをはじめ、現場のスタッフの皆がそういう気持ちを持っていたからだと思います。そこにある現実をただ映しているだけじゃない、映画だからできることみたいな自由さがすごく楽しいと思ったので、観客の皆さんにもそこを楽しんでほしいです。
(取材・文・写真/田中雄二)