日本産ホップの明と暗
今年の夏はビールが格別にうまい。うんざりするような猛暑の数少ない恩恵のひとつといっていいだろう。渇いたのどをうるおすには、爽快な苦みがはじけるビールがやっぱり一番。あらためてそう確信しているビール好きも多いはずだ。爽快な苦みに乾杯!というあなたに、ビールがさらにおいしくなるような、ある取り組みをご紹介しよう。
ビールの特徴である華やかな香りと爽やかな苦み。それらをもたらしているのは、ビール作りに欠かせない原材料のホップだ。ホップはアサ科のつる性多年生植物で、雄株と雌株があり、ビール造りに使われるのは雌株に咲く毬花(まりばな)だけ。その中に含まれる花粉のような黄金の粉末「ルプリン」がビール特有の苦みと香りを与えてくれるのだ。そのほかにも、ホップには泡持ちを良くし、殺菌効果で保存性を高めるなどの働きがあるため、16世紀頃にはビールの原料として欠かせないものになったようだ。そしてホップは、今もほぼビール製造のためだけに栽培され続けている珍しい植物だ。
世界では100品種以上が栽培され、ひとつとして同じ性格のものはないというホップ。今なお新しい品種が生み出され、大手メーカーのビールはもちろん、味覚や素材の多様性から着実に人気が広がっているクラフトビールでも、新しいビールを創造するための「アイデアの源泉」になっている。そんなクラフトビールの世界で、いま脚光を浴び始めているのが日本産ホップだ。全世界のホップ生産量のうち、たった0.2%にすぎない日本産ホップだが、多様性や他との差別化を重視するクラフトビールの世界では、むしろ希少性に価値がある。国内のクラフトブルワー(醸造家)としても、海外進出に向けて日本産ホップで特徴を出したい、国内で売るにしても国産ならではの香りで売っていきたいという思いがあって、日本産ホップは熱い視線を注ぎたくなる存在なのだ。
ところが、その日本産ホップの生産現場は決して楽観的な状況ではない。実は日本産ホップの生産量は減少傾向にあり、2005年に比べ約半分の270トンにまで減っている。その原因は、ホップ農家の高齢化と後継者不足。少子高齢化と地方の過疎化が進む日本においては、どの産業にも共通する深刻な課題だが、このまま手を打たなければ、日本産ホップを使用したビールが飲めなくなる可能性もあるという。
日本産ホップ復興のカギは“遠野”にあり
そんな日本産ホップの危機的状況を好転させようと、すでにさまざまな取り組みを行っているのがキリングループだ。日本産ホップ有数の産地である岩手県遠野市と手を組み、2006年からホップの魅力を最大限に活用して地域を活性化する「TK(遠野×キリン)プロジェクト」をスタート。遠野産ホップや食材をはじめ、遠野市の自然や観光情報も全国に発信している。さらに、「長期環境ビジョン」を設定する同社は、遠野のホップ畑でも持続可能な生物資源利用を目指して活動しているという。どうやら日本産ホップ復興のカギは“遠野”にありそうだ。遠野で何が起きているのか、キリンCSV戦略部の須賀香菜美さんと岡元泰将さんにお話をうかがった。
――キリンはどんな戦略で日本産ホップに取り組んでいるんですか。
須賀 日本産ホップの大事な価値を守っていくために、良質なホップをしっかり安定供給していくこと、そしてそういった取り組みが生産地域の活性化につながることを目指しています。さらには商品を通じて日本産ホップの価値を消費者に伝えるなど、日本産ホップのブランド化を推進すると共に、クラフトブルワーへの日本産ホップ外販を通じたクラフトビールカテゴリーの育成を目指し、各部署が連携してさまざまな活動をしています。
――なぜ遠野でプロジェクトが始まったんですか。
須賀 東北はホップの一大産地で、日本産ホップの96%が東北で作られています。一方、キリンは日本産ホップ全体の約7割を購入していて、遠野市の生産者とは契約栽培をもう55年も続けているんです。遠野は日本でトップクラスの生産量を誇りますが、生産量はピーク時に比べ1/4にまで減少しています。遠野の大切な農産物・ホップを守りたい、遠野を元気にしたいということで、キリンと遠野市による「TKプロジェクト」が始まったわけです。
さらに、久しくいなかった新規就農者として40代の吉田敦史さんが新たにホップ農家に加わったことで、遠野市とキリンだけではなく民間も一緒にホップを通じた町づくりをしていきましょうという流れもスタートしました。それが2015年に始まった「Tono Beer Experience」事業です。そして現在、遠野市では『ホップの里からビールの里へ』を合言葉にしたまちづくりが始まっているんです。
――それはどんなまちづくりですか?
須賀 「遠野に行けばビールに関するあらゆる体験がそこでできる」「ホップのことを知りたければまず遠野へ」というような、ホップの魅力を最大限に活用したまちづくりですね。たとえば、スペインでビールのおつまみとして定番のパドロンという野菜を生産し、「遠野パドロン」としてブランド化するなど、ビールをきっかけに食や農業も一緒に盛り上げます。また、クラフトビールの醸造所があったり、遠野産ホップを生かしたクラフトビールが飲めるパブもあったりします。単なる風景にすぎなかったホップ畑を観光資源に生かせないかということで、観光客にホップ畑の中で最高の一杯を味わう体験をしてもらうなど、遠野の町をまわってもらうビアツーリズムも展開していきます。
――ホップの収穫を祝う「遠野ホップ収穫祭」も毎年開催されているようですね。
須賀 3年前から始まったイベントで、ホップの収穫時期の毎年8月に開催され、今年は8月25日(土)、26日(日)に行われます。去年は人口2万8千人の町に遠野市民や観光客約6千人が訪れました。遠野の名物料理とビールを存分に楽しんでもらえるイベントで、ホップ農家が収穫したホップを醸造家に手渡すという式もあります。とれたばかりのホップを使ってキリンはしっかりビールを造っていきますということを来場者に示すことによって、遠野はホップの町なんだという住民の誇りを醸成していければと思っています。
――遠野で栽培しているホップの主な品種はなんですか?
須賀 ホップの試験栽培を始めてから来年で100年になるキリンの歴史が育んだ「IBUKI」というホップです。柑橘フルーツを思わせるフローラル・フルーティー・グリーンの香りが特徴で、2003年から販売している『一番搾りとれたてホップ生ビール』などに使用しています。『一番搾りとれたてホップ生ビール』は、日本産ホップだからできるんですが、遠野で生産されたホップを瞬間凍結して、フレッシュな状態のままビール醸造に使用することでその年とれたホップの香りを味わっていただきたいという商品です。
IBUKIは去年からクラフトブルワーさんに外販してキリン以外のクラフトビールにも使ってもらえるようになりました。さらにいろいろなホップを味わっていただきたいと新品種の開発も進んでいまして、海外のホップにはない、いちじくやマスカットの香りがする「MURAKAMI SEVEN」というホップにも期待が集まっています。
ホップ畑での環境への取り組み
――遠野のホップ畑で持続可能な生物資源利用を目指して活動しているということですが。
岡元 ホップの産地における持続可能性とは、ホップを栽培しながら自然環境を破壊せずに生き物と共存していくということです。まず、遠野のホップ畑にどれくらいの生物がいるのか調査するところから始めたのですが、昆虫104種、鳥類19種、そのほかほ乳類など、たくさん見つかりました。一番たくさんいたのは、林縁部と呼ばれる、ホップを風から守る防風林とホップ畑の境界部分です。この林縁部にはたくさんの草花が生えていて、この草や花を目当てに昆虫が集まり、その昆虫を目当てに鳥や小動物が集まってくるんです。自然というのは放っておくと強い植物ばかりが生き残って植生が単調になります。人間が草刈をしたり防風林を整備することで、多様な植物が茂り生き物を豊かにしているということが分かってきました。ホップづくりという人の営みが自然環境を守っているこの地は、まさに里地里山だと言えます。
――調査以外にはどんな活動を?
岡元 この1~2年は、もっと生き物を増やそうという取り組みを始めました。ひとつはキリン従業員有志による“生き物が過ごしやすい環境づくり”です。林縁部には伐採して放置している枝がたくさんありましたが、これがあると草が生えず、風通しも悪くなってしまいます。専門家の助言で、枝を拾い集めて短く切って積み上げた「エコスタック」(昆虫などの小さな生き物が生息する場所)をつくることによって、虫がたくさん集まってきてくれました。木の枝をどかすことによって草が生え、積み上げることによって虫が集まったんです。もうひとつは、繁殖力の強い笹を刈り取りました。こういった活動を去年から始めて今年で2回目です。また、地元の小学生にホップ畑の豊かな生態系を体感していただく「生きもの観察会」も開いています。
「ビールの里」構想に向けた動きは加速化
これまでのさまざまな取り組みが実を結び、遠野の新規就農者はこの3年間で10人も増えた。さらに新たな展開として、 「Next Commons Lab」という各地で活動している団体が2016年に遠野で10のプロジェクトを立ち上げ起業家を募集。
その中でキリンもビールプロジェクトのパートナーとなり醸造家とホップ農家を募集した結果、多くのエントリーがあり、3名の起業家が決定したという。
8月6日には、「キリンと農林中央金庫が農業法人BEER EXPERIENCE社に出資し、官民一体で遠野市の町づくりを推進」との報道発表があった。BEER EXPERIENCE社とは、先述の吉田さんが、機械化・集積化によってホップ生産を本格化するために立ち上げた農業法人である。動きはまさに加速しているのだ。
遠野では、「ビールの里」構想を具体化していこうと、市民・行政・企業が一体となって議論を重ね、未来のマスタープランも続々生まれているそうだ。醸造家の育成研修やマイビール造りが楽しめる「マイクロブルワリーラボ」、クラフトビールの量り売りをしてくれる酒屋さん、ビールを中心にしたコミュニティーがある中心市街地・・・。「夢は遠野を駆け巡る」である。
ホップ生産者と生産量の減少という逆風に立ち向かうため、さまざまな取り組みに挑戦してきた遠野市とキリン。そこから生まれた「ビールの里」構想は、ビール好きにとって“ビールの聖地”ともいうべき場所の創成、つまり新たな喜びを生み出してくれるのかもしれない。