日本の離島から唯一、定期船で海外へ渡航できるのは、国境の島である対馬だ。現在、島北部の比田勝(ひたかつ)港国際ターミナルと南部の厳原(いづはら)港国際ターミナルから韓国の釜山まで高速船が就航している。
約49・5キロ離れた対馬と釜山を結ぶ海の道は、古来、海上交通の重要ルートで、さまざまな人や文物が往来してきた。なにより朝鮮(韓国)との交易でもたらされる対馬の利益は莫大(ばくだい)なものだった。平地の少ない対馬の石高は、飛び地の領地だった肥前国(現佐賀県、長崎県)の1万石とあわせても2万石格だったが、幕府は対馬を重要な外交窓口として10万石格に遇したほどだ。
対馬初代藩主の宗義智(そう・よしとし)に悲劇が舞い込んだのは、1592年に始まった豊臣秀吉の朝鮮出兵だ。それまで朝鮮と良好な関係だった対馬は、「先陣を切って朝鮮を攻めよ」と命じられる。秀吉が亡くなると、今度は徳川家康に「朝鮮と国交を回復せよ」と命じられた。義智は、日本と国交を断絶していた朝鮮へ、命がけの外交を続け、1607年に朝鮮国王は日本へ使節団を派遣することにした。以降、1811年までに12回の朝鮮通信使が来日し、その間は両国に争いのない平和な時代が訪れた。
朝鮮出兵について、私は秀吉の貪欲な領土拡大の野心が招いたと考えていたが、ある日、書店で『信長 秀吉 家康はグローバリズムとどう戦ったのか』(著・三浦小太郎)という一冊を手に取った。それには、朝鮮出兵の引き金となったであろう、当時の諸外国の動きについて詳しく解説されていた。時は大航海時代で、ポルトガルやスペインがアジア諸国を次々と植民地にする中、宣教師が日本へ送り込まれ、植民地化を狙っていた。さらに、スペインが明(中国)を征服しようとする思惑があったという。それを知った秀吉は、国防のため、真っ先に明へ向かおうと動いたのではないか。
秀吉の真意は不明だが、学校の授業で教えられなかった一説に、当時の国際情勢を知れば「あり得るかも」と思った。対馬や、明の支配下にあった朝鮮王国は、グローバリズムの波に翻弄されたともいえる。
天気の条件が良い日、対馬の比田勝からは釜山の街並みが見える。かつて対馬に集まった防人(さきもり)たちも見ただろうか。現代は世界中のニュースがリアルタイムで飛び込んでくる。でも、なかなか当事者意識を持つことは難しい。対馬に立つと、「グローバリズムとどう戦い、平和を守っていくのか考え続けよ」と、先人たちの声が聞こえる気がする。
【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No.46からの転載】
KOBAYASHI Nozomi 1982年生まれ。出版社を退社し2011年末から世界放浪の旅を始め、14年作家デビュー。香川県の離島「広島」で住民たちと「島プロジェクト」を立ち上げ、古民家を再生しゲストハウスをつくるなど、島の活性化にも取り組む。19年日本旅客船協会の船旅アンバサダー、22年島の宝観光連盟の島旅アンバサダー、本州四国連絡高速道路会社主催のせとうちアンバサダー。新刊「もっと!週末海外」(ワニブックス)など著書多数。