11月の冷たい雨が降る夜、一日の疲れを感じながら自宅の裏庭を眺めていたエイリッシュの耳に、しつこくドアを叩く音が侵入してくる。玄関に立っていたのは、国家警察局の警官2人。夫を訪ねて来たのだ。彼はまだ帰宅していない―。平穏な日々が崩れていく予兆だった。
エイリッシュの夫、ラリーは教員組合の副委員長。子どもは高校生を頭に赤ん坊まで4人。少し離れた家には、物忘れがひどくなってきている老父が1人で暮らしている。エイリッシュ自身は分子生物学者だが、職場で任されているのは、専門職の仕事ではない。極右政党が政権を握り、少し前の9月には国家緊急権法が施行された。「昨今の国難に対応する」という名目で、国家警察局に治安維持の権限を付与する新法である。
夫のラリーがデモに出かけたまま行方不明になる。弁護士が力を失う。子どものパスポートが取得できない。長男が、政府軍に入るよう求める手紙を受け取る。国内の報道は真実を伝えなくなり、夜間外出禁止令が出される。水道水が濁り、ゴミが収集されずに放置される…。
移動の自由や言論の自由が奪われ、個人の尊厳が侵害されてゆく。不安と恐怖がひたひたと迫り、人々の精神を蝕んでゆく。

「あなたは治安に危害を与える可能性がある人物であると見なされています」と言われ、すくみあがるエイリッシュ。やがて、反乱軍と政府軍の戦いが始まるが、どちらも一般市民そっちのけで、殺戮集団へと変貌していく。住み慣れた街が戦場になる。
でも、住む場所を変えたくない市民はいつの時代にも必ずいる。ある人物が言う。「一カ所にずっと住み続けることに理由なんてあるかしら?」
ポール・リンチ著「預言者の歌」は、2023年に英国のブッカー賞に輝いた。舞台は近未来のアイルランド。だがジョージ・オーウェルの「一九八四年」やマーガレット・アトウッドの「侍女の物語」がそうであるように、優れたディストピア小説は、幾つもの国や地域で繰り返された過去の悲劇を彷彿とさせる。そして未来を予言しているだけでなく、今そこにある危機も投影されている。
訳者の栩木伸明によると、ポール・リンチはインタビューで、シリア内線を念頭に置きつつ、アイルランドに置き換えてシミュレーションのつもりで書いたと述べている。
段落の区切りが極端に少なく、会話文であることを示すカギ括弧もないまま記されていく文体は極めて緊密で、読者に息をつかせない。それが内容の緊迫感と融合して、主人公に伴走する読者を絶望の淵へと追いつめていく。
(共同通信編集委員 田村文)
【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No.29からの転載】







