「世界津波の日」はなぜ11月5日? 過去の教訓を忘れずハード、ソフト両面で備えを

 「天災は忘れたころにやってくる」。人口に膾炙するこの言葉は、千円札でおなじみの文豪・夏目漱石の弟子の一人、寺田寅彦の言葉として知られる。物理学者であり、東京帝国大学教授にして名随筆家・俳人としても著名な寅彦のこの警句を、大きな災害が繰り返されるたびに我々は大きな反省とともに思い出す。

 東日本大震災を教訓に日本が世界に呼び掛け、国連が定める「国際デー」の一つとして2015年に制定された11月5日の「世界津波の日」(※)。過去の津波被害を思い出し、教訓を対策に生かしていくため、津波への関心を世界中で高めてもらう日として設けられた。

 制定から2年目を迎える「世界津波の日」の意義などについて、国の防災施策を指揮する小此木(おこのぎ)八郎・国土強靱化担当相や、防災強化を唱える内閣官房参与の藤井聡京都大大学院教授、東日本大震災当時、被災した岩手県釜石市立釜石小学校で校長を務めていた加藤孔子(こうこ)さん、キャスターの酒井千佳さんが10月17日、都内で意見交換し、今後の大津波に備えた対策の在り方を探った。

「稲むらの火」に学ぶ

酒井 11月5日が「世界津波の日」となったいきさつとその狙いを教えてください。
小此木 11月5日が「世界津波の日」に選ばれたのは、安政元年(1854年)の同じ11月5日に紀伊半島を襲った「安政南海地震」による大津波から多くの命を救った濱口梧陵(はまぐち・ごりょう)の逸話「稲むらの火」にちなむ。現在の和歌山県広川町の村人・梧陵は自らの収穫した稲わらに火をつけて急を告げ、村人を高台に避難させた。この先人の成功に学び、津波への関心を世界中で高め、津波から人々の命を守る対策を進めていきたい。

酒井 2011年3月11日の東日本大震災で釜石小学校の児童は自ら判断して高台に逃げ津波から身を守った。津波当日はどんな状況でしたか。

加藤 あの日は午前授業の金曜日。大きな揺れから30分後に津波が来たとき、子どもたちは全員下校していた。高台の学校で津波を見ながら子どもたちを心配した。でも夜まで外は歩けなかった。次の日、子どもたちを探しに外に出て坂を下りた。一面、もうがれきと泥の山。必死に探して全校児童184人中、174人を見つけたが、残る10人はなかなか見つからない。最悪の事態が一瞬、頭をよぎった。3日目の3月13日午後3時2分、10人全員の無事を確認した時、先生方と泣いて喜んだ。その瞬間は「奇跡」だと思った。

加藤 孔子氏(かとう・こうこ)岩手大卒。08年から4年間、釜石小学校長。現在盛岡市立見前小学校長。岩手県出身。
加藤 孔子氏(かとう・こうこ)
岩手大卒。08年から4年間、釜石小学校長。現在盛岡市立見前小学校長。岩手県出身。

奇跡でなく“軌跡”

酒井 奇跡を起こしたものは何ですか。

加藤 地震・津波時の危険箇所や避難場所を子どもたちが自ら歩きながら地図に記入した「ぼく、わたしの防災安全マップ」や、東日本大震災前に3回繰り返した「下校時津波避難訓練」、映像を取り入れた過去の津波事例に学ぶ「津波防災授業」が役立った。もちろんこれだけではない。「津波が来たらとにかく家族てんでばらばらで高台に逃げろ」という地元・三陸地方の言い伝え「津波てんでんこ」も大きかった。友だちや小さな弟を連れて一緒に高台に逃げた子どもたちもいた。友だち、家族を思う心や、子どもたちに声を掛けて高台に導いてくれた地域の方々との絆も、多くの子どもたちの命を救った。

 子どもたち自身は命が救われたのは「奇跡」だと思っていない。ある6年生から「奇跡じゃない。学校で教わったことをそのまま実行した」と言われた。防災教育や言い伝え、家族・友人や地域を結び付ける心と絆のすべてが多くの子どもたちを守った。いまは「奇跡」ではなく、子どもたちと学校・地域がこれまで共に取り組んできた津波対策の“軌跡”が産んだ結果だと思う。

小此木 野球でも、本番に備えてさまざまな練習を繰り返す。日ごろの練習があってこその本番。釜石の子どもたちは津波訓練を3回繰り返す中で、津波に対する備えが自然に身に付いたと思う。それが「奇跡じゃない」「いつもやってきたこと」という子どもたちの認識につながっている。その認識の底には「教えてくれてありがとう」という先生方への感謝の気持ちがあると思う。

藤井 「奇跡」を起こした子どもたちにとっては、普通の“軌跡”と思えるような、学校の授業だけでないさまざまな形での大人たちの働き掛け、適切な教育があったと思う。我々が学ぶべきことはこの「教育」の偉大さ。今後想定される「南海トラフ地震」を中心とした大津波に備える意味でも、釜石小の先生方の取り組みは、何らかの形で教育に関わるすべての日本人が学ぶべきものだ。

小此木 八郎氏(おこのぎ・はちろう)玉川大卒。17年8月から国土強靱化担当相。神奈川県出身。
小此木 八郎氏(おこのぎ・はちろう)
玉川大卒。17年8月から国土強靱化担当相。神奈川県出身。

今後の津波対策

酒井 今後の大津波に備えるためにやるべきことは何ですか。

藤井 日本全国の子どもたちが「釜石小の奇跡」のように、しっかりと自分の命を守れるように教育するとともに、一番の基本である堤防をきちんと整備する必要がある。堤防は人々の命とまちそのものを守る。逃げる高台がない地域には津波タワーも造る。

 企業は専門用語で「BCP」(事業継続計画)といわれる「防災計画」をしっかり作り、災害に備えてほしい。各地域も、町内会などで話し合い、災害時にどう逃げるか一軒一軒、考えてもらう取り組みをしてもらいたい。ソフトな防災教育からハードの堤防整備まで、できることをすべてやっていくべきだ。

酒井 将来の日本や世界の防災を担う若者に期待することは何ですか。

小此木 2017年11月7、8日の両日、沖縄県宜野湾市で「『世界津波の日』2017高校生島サミットin沖縄」が開催される。世界26カ国、約250人の高校生が沖縄に集まり、防災、減災を議論する。津波、地震の被害を最小化する国土強靱化を担う将来の防災リーダーを育成する。このサミットをきっかけに防災に関する若者同士の国際交流や国際協力の輪を広げてほしい。

加藤 高校生ら若者にはまず東日本大震災の経験を語り継いでほしい。岩手県では「明治三陸大津波」と「昭和三陸大津波」があった。それをずっと大人たちが語り継いできた。だから「津波てんでんこ」の言い伝えがある。当時、現地やテレビで見たこと、感じたことをぜひ語り継いてほしい。生きたくても生きられなかった命がたくさんある。命を大切にしてその人たちの分も生きてほしい。またふるさとの良さもしっかりと受け止めてほしい。人間は自然の恵みを受けて生きているが、その自然が時に津波のような牙をむく。だけどそれに対処する方法を若者たちはきっと考えてくれると信じている。

藤井 聡氏(ふじい・さとし)京都大大学院修了、工学博士。12年から内閣官房参与。奈良県出身。
藤井 聡氏(ふじい・さとし)
京都大大学院修了、工学博士。12年から内閣官房参与。奈良県出身。

生き続ける梧陵の志

酒井 最後にメッセージを。

加藤 津波などあらゆる災害が起きても、人間は知恵と努力で命を守り抜くことができる。地域はこれからも人と人が絆でつながる社会であり続ける。どこで暮らしてもふるさとはふるさと。大きく考えると日本全体が私たちのふるさとだから、みんなで愛しながら守っていきたい。

藤井 津波に関してはとにかく逃げる、逃げることによって命が救われる。この単純なふるまいが「なぜできなかったのか」と将来反省する機会は絶対にあってはならない。さらに加藤先生が言われる「ふるさと」、自分たちのまちを、可能な限り堤防を整備して守っていくことも大切だ。

 「稲むらの火」の後日談を最後に紹介したい。濱口梧陵は村人を救ったが、村は全部破壊されてしまった。仕事を失い途方にくれる村人を見た梧陵は私財を投げ打ち堤防を造った。その工事に村人を雇い、仕事とお金、そしてふるさとへの希望を村人に与えた。村人の命を救うだけじゃなく村を救った。それから一世紀近く後に「昭和南海津波」が梧陵のふるさとを襲ったが、梧陵の造った堤防が人々の命とまちを救った。これが「稲むらの火」の“最終章”だ。この物語を日本が世界に広め、物語に豊富に含まれる防災上の教訓を11月5日が来るたびに世界中の人々と一緒に思い起こすのが「世界津波の日」の意義だと思う。

小此木 藤井さんのおっしゃったハードの堤防整備と加藤さんのソフトの防災教育は車の両輪だ。これが別々の「一輪車」との誤解もある。防災意識を高めるためにしっかりと情報発信し、防災対策を国の施策の中心に位置付ける「防災の主流化」を進めていきたい。

酒井 千佳氏(さかい・ちか)京都大卒。地方局のアナウンサーを経て12年からフリーキャスター。兵庫県出身。
酒井 千佳氏(さかい・ちか)
京都大卒。地方局のアナウンサーを経て12年からフリーキャスター・気象予報士。兵庫県出身。

※「世界津波の日」 2011年3月11日の東日本大震災を教訓に、11月5日を「津波防災の日」と2011年6月に定めた日本が、世界中の防災意識の向上を狙い各国に提案を呼び掛けた。日本をはじめ142カ国の共同提案で11月5日を「世界津波の日」とすることが2015年12月、国連総会の全会一致で決まった。日にちは、安政元年(1854年)11月5日に発生した安政南海地震時の大津波から人々の命を救った濱口梧陵の逸話「稲むらの火」から採用した。

鼎談メンバーの集合写真
鼎談メンバーの集合写真