気候変動や災害のリスクから農産物を守る切り札にも! 実はすごいキリンの「植物大量増殖技術」とは

植物大量増殖 袋型培養槽
植物大量増殖 袋型培養槽

大麦やホップの研究からスタートし、植物の大量増殖技術に到達

 いつ、何が起きるか分からない不透明な時代。2020年、新型コロナウイルスの感染拡大で、私たちはそう思い知らされた。だが、ひるんではいられない。いま必要なのはレジリエンス(強靭さ)だ。個人はもちろん、国や社会、そして企業にも、危機に対処できる対応力、反発力、回復力が求められている。
 新型コロナウイルスの登場によって忘れられがちだが、人類にはもうひとつ対処しなければならない大きな問題がある。気候変動である。日本では近年、「数十年に一度」の自然災害が毎年のように発生している。2017年の九州北部豪雨、2018年の西日本豪雨、2019年の台風15号、台風19号、2020年7月豪雨と、甚大な被害をもたらした。世界を見渡しても、異常乾燥による大規模な山火事、巨大ハリケーン、熱波、旱魃(かんばつ)、バッタの異常発生、豪雨による洪水・河川決壊など、「史上最悪」級が多発している。
 気候変動は、生物資源を原料として利用しているキリングループにとっても最重要課題の一つ。ビールの原料である大麦とホップ、ワインの原料のブドウ、清涼飲料水の紅茶葉やコーヒー豆など、原料として不可欠な農産物が気候変動によって危機にさらされている。大幅な収量減や生産地の変動・消失という可能性があるからだ。何らかの「適応」が求められる中、キリンホールディングス(以下、キリン)が開発した、ある技術に注目が集まっている。「植物大量増殖技術」である。様々な社会課題の解決にも役立つと期待されるその技術とは、いったいどんなものなのか。キリン中央研究所の間宮幹士農学博士にお話をうかがった。

キリン中央研究所 外観
キリン中央研究所 外観

――そもそも、なぜキリンが植物の大量増殖技術に取り組むことになったのですか?

間宮 キリンの中心的な事業はビール製造・販売ですので、原料の大麦とホップに関する研究はかなり前から行っていました。栽培や品種改良を中心にやってきた中で、世の中でバイオテクノロジーの研究が盛んになってきたのが80年代。多くの企業が経営の多角化を模索していた時代でもあり、キリンも植物全般を研究しようと、1983年に栃木県に植物開発研究所を設立しました。大量増殖や遺伝子組換えができるような力も付いてきて、1995年にはキリンアグリバイオという会社を設立し、鑑賞用の草花、野菜、ジャガイモなどを全世界的に展開していました。その後、組織再編を経て研究開発の部門がキリンホールディングスの中に移り、現在のキリン中央研究所に至っています。

キリンホールディングス株式会社 R&D本部 キリン中央研究所 研究員 博士(農学) 間宮幹士
キリンホールディングス株式会社 R&D本部
キリン中央研究所 研究員 博士(農学) 間宮幹士

実用化のカギはキリン独自の「袋型培養槽を用いた生産技術」

――植物の増殖は、一般的にどういう方法で行われ、どういう問題があったので、大量増殖技術の開発に取り組まれたんですか?

間宮 植物は大きく分けると、種で増やす植物と、挿し木など苗で増やす植物とがあります。種で増えるものの代表的なものは稲や麦です。こちらは比較的大量に増やすことができ、保存もききます。その一方で、キクやカーネーションなどの花やジャガイモは植物体の一部を切り取って増やしていくような形になります。この増やし方は、効率があまり良くないのと、いったんウイルスが入ると抜けることがない。そういうこともあって、大量に増やすには組織培養という方法がとられます。植物の細胞は、一般的には「分化全能性」といって、どこから採った細胞でも別の組織になったり、完全な個体になり得る能力を持っています。もちろん簡単にできる植物もあれば、非常に困難な植物もあります。植物の細胞や組織を閉じた容れ物の中に入れて培養すれば、虫も入りませんし、完全に病害虫フリーな状態で増やすことができます。さらに、数的にも通常の方法に比べて有利に増やすことができます。

――キリンが開発した独自の大量増殖技術とはどういうものなのでしょうか。

間宮 組織培養で植物を増やす技術はそれまでにも開発されていましたが、多くは手作業で、手間や労力がかかるものでした。増殖率も年に数十倍から数百倍ほどでした。それをさらに高めるために、キリンが独自に開発したのが4つの大量増殖技術です。培養した植物の苗をもとに、植物の生育に必要な無機塩類や糖などを加えた液体の培地を使って、「茎」、「芽」、「胚」、「イモ」の形で、独自に開発した袋の中で大量に増殖するのです。

キリンが独自に開発したのが4つの大量増殖技術
キリンが独自に開発したのが4つの大量増殖技術

――キリンが大量増殖技術に成功した理由は何ですか?

間宮 実用的な生産技術に仕上げるにあたっては、非常に多くのノウハウがありますので、それを積み重ねてきたということだと思います。難しい局面はたくさんありましたが、最大の難問は生産用の容器をどうするかでした。

 最初は、大きいタンクで作る方が効率が良いだろうと、大きな培養槽で試しましたが、うまくいきませんでした。また、ガラスやステンレスの大きなタンクだと値段がかなり高くなりますから、当然、数多く使って実験できません。大量に並べて使えるかというと、スペース的な面でも難しいです。そんな中でたどりついたのが、独自に開発したプラスチックフィルム製の袋型培養槽です。袋型ですからそんなに大きくはできませんが、コスト的に非常に有利です。また、大型にすると具合の悪いことも出てきます。中を微生物やカビがいないクリーンな状態にするのに、非常に手間がかかるのです。袋だとひとつひとつがコンパクトなので、割と楽にできます。大量生産するビールは、大きなタンクをたくさん並べて作ればいいのですが、花などの植物だと、多品種少量生産に対応しないといけない。その場合は大きなタンクで大量生産するより小さな袋の方が小回りが利きます。ということで、コスト面、小回りの良さ、割れたりしない安全性、人が持てる大きさによる作業性、高い無菌性などから、この袋型培養槽を開発できたことが、実用化にあたっては重要なポイントだったと思います。

キリンが独自に開発したプラスチックフィルム製の袋型培養槽
キリンが独自に開発したプラスチックフィルム製の袋型培養槽

優良な性質を持つ植物と同じ遺伝子型の苗を大量に増やすことが可能に

――4種類の増殖法はすべての植物に対応できるんですか? また、4つの増殖法でどんなことができるようになったんですか?

間宮 全部とは言えないですが、かなり幅広い植物に対応できます。また、それぞれの方法に適合しやすい植物というのがあります。
 これらの技術を使って、病気のない健全な苗や、親と全く同じ遺伝子型の苗(クローン)を、植物種によっては数万倍~数十万倍もの増殖率で大量に増やすことができるようになりました。稲や麦の場合は、種(たね)で同じ遺伝子型の苗を増やすことはできますが、植物によっては種を作っても遺伝的に形質がバラバラになることもあります。このような場合には、組織培養による増殖が重要になってきます。
 農業では、収穫の時期がそろうとか、大きさや形がそろうといったことが重要になってきます。例えば、「母の日」用に出荷するカーネーションが、母の日の直前に一斉に咲いてくれないと売れ残ってしまいますよね。組織培養により作った遺伝的に均一な苗を、温度、光、肥料などがばらつかないように制御した環境で栽培することにより、開花時期をそろえることが可能になるのです。
 また、環境の変化、消費者の好みや流行に合わせて、新しい品種を急速に増やすということも可能になってきます。花なら色や日持ちの良さ、ジャガイモなら病害虫に強いもの、おいしいもの、収量の多いもの、でんぷんの多いものなどです。さらに、絶滅危惧種や有用な植物の大量増殖にも役立ちます。これらを比較的低コストでできるわけです。

――今後の課題はありますか?

間宮 技術を洗練させていくということは当然ですが、現在のキリンが注力している分野に植物関連の技術を適用する、うまく応用して価値に替えていくというところが課題になってきます。例えば、「医と食をつなぐ事業領域」での植物による有用物質生産であったり、地球温暖化が進行する中での原料確保に向けた取り組みだったりです。

キリン中央研究所 研究室の様子
キリン中央研究所 研究室の様子

経営の根幹に据える「環境」という文脈でも「適応策」の一つに

 社会的価値と経済的価値の両立を目指すCSV経営に2013年から取り組んできたキリン。長期経営構想「キリングループ・ビジョン2027(KV2027)」で、「食から医にわたる領域で価値を創造し、世界のCSV先進企業となる」ことを目指すと宣言。さらに、KV2027の長期非財務目標として、社会と価値を共創し持続的に成長するための指針として「CSVパーパス」を定め、「酒類メーカーとしての責任」を前提に「健康」「地域社会・コミュニティ」「環境」についての指針の実現に向けて、各事業で「CSVコミットメント」に取り組んでいる。
 なかでも、キリンが持続的な成長のキーになると位置づけているのが環境課題の解決だ。と言っても、環境に配慮している、省エネに取り組んでいる、といった従来の取り組みの延長線上の発想ではない。もっと長期的な視点から、企業が生き残れるのか、成長を続けられるのか、という視点がポイントになる。FSB(金融安定理事会)が設置したTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)は、企業に対し、1.5℃や2℃目標等の気候シナリオを用いて、自社の気候関連リスク・機会を評価し、経営戦略・リスク管理へ反映して、財務上の影響を把握、開示することを求めている。温暖化が止まらなければ、現在頻発している自然災害を超える影響が出る可能性がある。1.5℃や2℃目標を達成するために厳しい規則が課さられる可能性も高い。そうなると、企業活動の前提としてきたことのすべてがひっくり返る可能性がある。
 実は、このことの重要性を理解し、TCFDに日本の食品会社で初めて賛同を表明したのがキリンだ。キリングループは、TCFD最終提言が2017年6月に出てすぐに活動を開始し、当時参考になる事例もない状況からシナリオ分析に乗り出し、2018年6月に発行した環境報告書で3つのグループシナリオで事業にとって重要な原料である農産物が、気候変動問題の大きな影響を与える可能性を把握して開示した。
 2019年には、大麦、ホップ、ワイン用ブドウ、紅茶葉を対象に、農産物の収量を調査。グループシナリオ1(気温が2℃上がった場合・持続可能な発展)とグループシナリオ3(気温が4℃上がった場合・望ましくない世界)を用いて、主な調達国別に2050年と2100年時点の気候変動の影響をさらに詳しく分析した。それによると、いずれのシナリオでも大麦やホップの大幅な収量減という結果が予想され、ワイン用のブドウは大きな収量減が予想される生産地がある一方で新たに収量増が期待できる場所があることが判明。加えて、農産物生産地の水ストレスや水リスクはかなり高くなるという評価が出た。2020年には、収量減が調達コストにかなり大きな影響を与えることも試算して公表している。

主要農産物産地における2040年、4℃での水ストレス(キリングループ環境報告書2019年シナリオ分析より)
主要農産物産地における2040年、4℃での水ストレス(キリングループ環境報告書2019年シナリオ分析より)

 厳しい予想だが、キリンはこの結果を前向きに捉えることにした。2020年に発表した「キリングループ環境ビジョン2050」で、気候変動に対応する緩和策や適応策の強化を打ち出したのだ。緩和策としては、2050年までに温室効果ガスの実質ゼロという高い目標を設定。しかし、自然資本を利用して企業活動を行っているキリンにとって重要なのは適応策。その一つが、「持続可能な原料農産物の育種・展開および調達」であり、それを実現するソリューションとして期待されているのが「植物大量増殖技術」なのである。キリン自らは農産物を開発・生産するわけではないが、環境変化に対応した農産物が開発された場合に、これを短期間で増やして作付面積の拡大に寄与することが可能になるというわけだ。

キリングループ環境ビジョン20500(2020年2月発表)
キリングループ環境ビジョン20500(2020年2月発表)

 「キリングループ環境ビジョン2050」でキリンが目指すのは、自社の枠組みを超えて社会にポジティブなインパクトを与えること。世界でも類を見ないキリンの「植物大量増殖技術」は、実はすでに社外のさまざまな分野でポジティブなインパクトを与えている。
 例えば、東日本大震災の津波で壊滅的な被害を受けた海岸沿いの防災林の再生だ。従来の挿し木や種で増やす方法だと元に戻すにはかなりの年月がかかるが、キリンは被災地の農業高校などと連携し、「植物大量増殖技術」を使って胚を組織培養しクロマツの苗を大量に増やしている。
 また、2015年には日本のジャガイモにそれまでなかった深刻な病気が発生。その病害虫に対する抵抗性のある品種をできるだけ短時間で増やすことが求められた。そこで、キリンのイモ培養技術と袋型培養槽を用いた大量増殖技術が評価され、農研機構種苗管理センターへ技術移転。日本のジャガイモの保全と発展にキリンの技術が使われた。
 さらにキリンは、2017年から文科省による産学連携の月面基地プロジェクトにも参加。月面施設で作物を栽培する「月面農場」も共同研究中だ。「袋型培養槽を用いた生産技術」であれば、小型の袋の内部で水を循環させながら植物を育てられるので、貴重な水資源の有効利用が可能。軽量かつ安価で小ロット生産に対応できてウイルス・病原菌フリーという特長も、制約の多い宇宙空間で期待されている。

月面農場イメージ 画像提供:竹中工務店
月面農場イメージ 画像提供:竹中工務店

 このように、さまざまな分野で課題解決に用いられているキリンの「植物大量増殖技術」だが、やはり今後期待される役割は気候変動への「適応」だ。異常気象や災害によって真っ先にダメージを受けやすい農産物を、短時間で大量に復元する技術は、まさにレジリエンス。気候変動が進むことで食料生産の収量低下を危惧する声も上がる中、「植物大量増殖技術」は、社会と企業の両方にとって、気候変動への「適応」の切り札となるに違いない。