15年前に今住んでいる集落に移住してきてから、この地の暮らしの全般にわたって世話になり続けてきた近所の長老が先日突然亡くなってしまった。
90歳を超えてなお矍鑠(かくしゃく)とし、冬場で畑仕事がなくても毎日のように戸外にいる姿を見かけていた。亡くなる何日か前には立ち話もした。年齢が年齢だけに、いつかはと分かっていたつもりではあったが、まさかこんな急に亡くなるとは思ってもいなかった。今でも外にいると、「おい」と声をかけられそうな気がする。
長老から教わったことは数知れない。田んぼや畑の仕立て方は文字通り「一」から教えてもらったし、集落のさまざまな歴史やエピソードを折に触れて話してくれた。それは畑仕事の合間であったり、草刈りの途中であったり、仕事に行き詰まって気分転換にと外に出てきて捕まった時であったりした。
長老の話は長くなるのが常で、仕事が残っている時は「いつ切り上げてくれるんだろう」と気がせきもしたが、昔話などは新参者として「聞いておかなくては」と、結局は居住まいを正すような心持ちで耳を傾けたものだ。
「あれはな」というので長老がじかに経験した話だろうと思って聞いていると、100年以上も前の話だったことも少なからずあった。それだけ臨場感があり、表現も豊かなのでこちらも聞き入ってしまい「へええ、それでどうしたんですか」と先を促して話をさらに長引かせてしまうのであった。
若い頃から山仕事をし、自治会の役員も長く務めた長老は、集落の山のことを隅々まで知っていて、森林の境界も熟知していた。以前は森林組合から請われ、境界確認の立ち合いもよくしていたそうだ。
最近はさすがに山歩きはきつくなったようで、「おぶって連れていってくれるのでなければ、オレは行かねえ」と言っていたが、頼むことはもう永久にできなくなった。私自身も、何かあれば長老に教えてもらえばいいと思っていたのに、それはかなわなくなった。長老より少し年下の近所の人たちも「話し相手がいなくなっちまった」と寂しさを隠さない。
土地の記憶は世代を超えて受け継がれていくべきものだ。だが、過疎化が進む地域では、記憶が紡がれていく未来を描きにくい現実がある。自然と身近な暮らしに特有の、そして必須の知恵も失われるに任せるしかない。半端ではない喪失感を覚えている。
【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No.13からの転載】