カルチャー

忍者の国・伊賀のルーツを探る、「発掘された日本列島展」津市で開催中

展示解説を行う三重県総合博物館の調査・資料情報課長(学芸員)の宇河雅之さん

 文化庁が主催する「発掘された日本列島展」が、12月14日まで津市の三重県総合博物館で開催されている。日本各地の発掘成果を紹介する人気の巡回展で、今回は開催地・三重ならではの独自展示「王権東へ 伊賀古墳時代」が加わっている。忍者の里として知られる伊賀に、もう一つの時代の顔が見えてくる。

▼ヤマト王権とともに歩んだ伊賀、伊賀国誕生への道

 古墳時代、伊賀には阿拝(あえ)・山田・伊賀・名張の4つの地域勢力が存在したという。このエリアの特に興味深い点は、この4つの勢力の首長墓である古墳の変遷をたどれること、そしてその後の律令制の時代になると、これらの勢力基盤が伊賀国の4郡となり、それぞれに古代寺院が築かれ、権威を振るうようになるまでの歴史的な流れを時系列で追えることだ。

 前方後円墳はヤマト王権からお墨付きを得て築造されるもので、伊賀には県最大の御墓山古墳(全長188メートル)をはじめ、4基もの大型前方後円墳が確認されており、ヤマト王権の影響を受けた有力豪族がいたことがわかっている。

 阿拝(あえ)郡には、県最古級の東山古墳(4世紀半ば)に始まり、県最大の前方後円墳である御墓山古墳(5世紀初頭)が築かれ、仏教文化が伝播した飛鳥時代には御墓山窯跡で仏教器物が生産されたことが確認されている。

法隆寺の玉虫厨子によく似た形をしている宮殿形陶製品(御墓山窯跡出土)

 国と同じ郡名であることから重要な地域であったと思われる伊賀郡では、県内3位の規模である石山古墳(120メートル、4世紀後半)から、武器・武具などの副葬品が大量に出土した。ヤマト王権から軍事力として期待された豪族であったことがうかがえる。

伊賀郡のわき塚1号墳から出土した甲。同古墳には武器・武具のみが納められていた

 琴平山古墳(全長70メートル、6世紀初頭〜前半)は、名張において最初に造られた前方後円墳だ。名張では、他郡と違って6世紀から突如古墳が登場しており、この時期になって大きな勢力が配置されたと考えられている。128センチの直刀をはじめ、石室から出土した副葬品が武器・武具に限定されることから、やはり軍事力のある被葬者であったようだ。

琴平山古墳から出土した直刀(手前)

 名張は、播磨(兵庫)や近江(滋賀)と並び、ヤマト王権が古墳時代後期に特別な技術を持った渡来人を住まわせた場所とされる。根冷(ねべ)4号墳からは、県内に二例しかない鈴付壺が出土した。これは朝鮮半島の伽耶地域でよく見られるもので、渡来人の墓だと考えられている。琴平山古墳の被葬者は、名張に移住してきた渡来人をまとめる役割を担っていたのかもしれない。

根冷4号墳から出土した把手付椀(中央)と鈴付壺(右)

 伊賀国は、壬申の乱に勝利した天武天皇の時代に、律令制の整備とともに伊勢国(現在の三重県域)から分かれて誕生した。なぜ伊賀の4郡を国にしたのか。大海人皇子(のちの天武天皇)は、壬申の乱の際に吉野から東国へ脱出する途中、伊賀を通過している。その経験から、伊賀は大和国(奈良)を守る防衛戦であり、東国へ通じる交通の要衝として、改めてその重要性が認識されたのかもしれない。

▼国宝の船形埴輪と専修寺御影堂・如来堂

 最後に、巡回展の本展内パネル展示で紹介されている県内4位の規模を誇る前方後円墳の宝塚1号墳(全長111メートル、5世紀初頭)について。古墳から張り出した平台の周囲から出土した埴輪群は国宝指定されており、中でも船形埴輪は国内最大級の大きさで豪華な装飾が施されており見応え抜群だ。史跡として整備された宝塚古墳や国宝の埴輪群は同館から車で30〜40分ほどの松阪市で鑑賞できる。

会場に設置された宝塚1号墳の船形埴輪(レプリカ)

 さらに同館からすぐの場所にある真宗高田派本山の専修寺(せんじゅじ)にもぜひ立ち寄ってほしい。宗祖である親鸞聖人の坐像等を安置した御影堂は、近世以前の仏堂の中では全国屈指の大きさ。隣の如来堂と併せて、県内で唯一の国宝指定建造物だ。

堂内に畳729枚を敷き詰められる大きさの専修寺御影堂

 戦国の忍びの里として知られる伊賀。その歴史を古墳時代にまでさかのぼってひも解く展示。ヤマト王権とともに歩んできた伊賀の物語を、全国の発掘事例とあわせて、ぜひ三重県総合博物館で体感してほしい。

充実した品揃えの三重県総合博物館のミュージアムショップ。列島展図録とグッズをお買い上げでクリアファイルプレゼント!