ポール・マッカートニーは1980年代末になって約13年ぶりとなる世界ツアーに乗り出し、お蔵入りしていたビートルズ・ナンバーの数々を解禁した。89年10月27日にイタリア北部ミラノでライブ収録された「オール・マイ・トライアルズ」という歌は、ポールにとって80年代が苦難の連続であったことを踏まえて「主よ、もう試練には遭わせないでください」という彼の神への祈りだったのだと思う。
90年発売のCDシングルに収録されている「オール・マイ・トライアルズ」という作品は聖書から出た宗教的な比喩から通常、霊歌に分類されるスタンダードである。
「ヨルダン川は冷たく凍てつき、肉体を冷やすけれど、魂が冷えることはない」(The River of Jordan is chilly and cold, chills the body, but not the soul)という歌詞は、キリスト教徒にとってヨルダン川を渡ることは死を意味し、新約聖書のマタイによる福音書の「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」というイエス・キリストの教えを示している。そして、「主よ、私のもろもろの苦難(試練)もじきに終わることでしょう」(All my trials, Lord, soon be over)とポールは祈るように歌ったのだ。
実際、80年代のポールは苦難あるいは試練続きだったといっても過言ではないだろう。80年1月にはウィングスを率いて日本ツアーを行うため、成田空港に降り立ったものの、大麻所持の現行犯として逮捕されるという事件で80年代は幕を開けた。
同年12月には盟友ジョン・レノンがニューヨークで凶弾に倒れた。たとえ離れていても互いを意識し合っていた2人にしか分からない世界があったことは間違いなく、そのジョンを失ってしまった喪失感はポールにとって耐えがたいものだった。
71年に結成されたウィングスは解散を余儀なくされた。
ジョンを失った悲しみを「仕事」をすることで振り払おうとしたのか、ジョージ・マーティンをプロデューサーに迎えた82年の作品『タッグ・オブ・ウォー』は高い評価を受けた。だが同時にポールによるジョンの「代わり」探しの長い旅の始まりでもあった。同アルバムでは、スティービー・ワンダーとのコラボレーションが試みられて、「エボニー・アンド・アイボリー」という大ヒット曲が生まれた。
83年発表のアルバム『パイプス・オブ・ピース』では、当代一の人気アーティストだったマイケル・ジャクソンとタッグを組んだ。二人の共作「セイ・セイ・セイ」は世界的な大ヒットとなったが、ポールはコンビを組むべき相手探しをやめることはなかった。そもそもスティービーもマイケルも常にコラボレーションする相手としては大物すぎた。
そしてポールはマイケルには裏切られたという気持ちがあった。ポールと故ジョンの妻オノ・ヨーコが共同入札する予定だったレノン=マッカートニー作品の著作権を、85年にマイケルがさらっていってしまったからだ。二人の関係は苦い終わりを迎えた。
84年の同名映画のサウンドトラック『ヤァ!ブロード・ストリート』が、ビートルズ・ナンバーのセルフカバーが含まれていたにも関わらず、映画、アルバムともども不評だった後に、手を組んだのが10ccのエリック・スチュワートだった。しかし、二人の共作が全10曲中8曲を占めた『プレス・トゥ・プレイ』(86)も大きくこけてしまう。
ポールは振り返った。「アルバムとしてはあまりうまく行かなかった。悪くないと思ったのだけど、よく考えてみたら、ジョンの代わりを務めるのは、だれにとっても簡単なことじゃないからね。彼らには同情するよ。だって彼らはぼくと曲を書きながら、最後にこの男が組んだパートナーらしきパートナーはジョン・レノンだったってことを、嫌でも意識していたはずなのだ。まいったな、どうしたら期待に応えられるだろう?って」(ポール・デュ・ノイヤー著『ポール・マッカートニー 告白』DU BOOKS)。
次に組んだのがエルヴィス・コステロだ。ポールはコステロの辛辣(しんらつ)さ、直截(ちょくせつ)さにジョンの影を見いだす。コステロが「陰」ならば、ポールが「陽」であるといった、ちょうどレノン=マッカートニーの役割を思い起こさせるコラボレーションとなったのだ。
89年発表のアルバム『フラワーズ・イン・ザ・ダート』は久々の会心作となった。その自信がポールに同年秋に始まる世界ツアーを決意させたのである。ウィングス時代とは違って、もはやビートルズ・ナンバーの数々を封印することなく、しかもポールのビートルズ時代の象徴ともいえるヘフナーのバイオリン・ベースを引っ張り出してきたのだ。
89年にスタートした世界ツアーの中で、翌年6月28日に故郷リバプールに凱旋公演を行った際、ポールはジョンへのトリビュートとして、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー~ヘルプ!~平和を我等に」のメドレーを披露した。
このライブ収録されたメドレーは「オール・マイ・トライアルズ」のCDシングルに収録されている。80年代はジョンというかけがえのない生涯のライバルの喪失から始まり、同年代末には彼の代わりは誰にもできないのだという当然の結論に達するとともに、ビートルズ時代からの呪縛からも解き放たれ、「一人ビートルズ」をライブで行うという今日に見られるライブのスタイルを確立させていくことになる。
その決意が示されたのがジョンへのトリビュートも収録されているCDシングル「オール・マイ・トライアルズ」であったのではないかと思う。
(文・桑原亘之介)
桑原亘之介
kuwabara.konosuke
1963年 東京都生まれ。ビートルズを初めて聴き、ファンになってから40年近くになる。時が経っても彼らの歌たちの輝きは衰えるどころか、ますます光を放ち、人生の大きな支えであり続けている。誤解を恐れずにいえば、私にとってビートルズとは「宗教」のようなものなのである。それは、幸せなときも、辛く涙したいときでも、いつでも心にあり、人生の道標であり、指針であり、心のよりどころであり、目標であり続けているからだ。
本コラムは、ビートルズそして4人のビートルたちが宗教や神や信仰や真理や愛などについてどうとらえていたのかを考え、そこから何かを学べないかというささやかな試みである。時にはニュースなビートルズ、エッチなビートルズ?もお届けしたい。