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好きなもの、熱中できるものを見つけることが大切と説く『フェイブルマンズ』/奇想天外だが根底には普遍的なテーマがある『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』【映画コラム】

『フェイブルマンズ』(3月3日公開)

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 両親に連れられて、映画館で『地上最大のショウ』(52)を見て以来、映画に夢中になった少年サミー・フェイブルマンは、母(ミシェル・ウィリアムズ)から8ミリカメラをプレゼントされる。

 成長したサミー(ガブリエル・ラベル)は、映画を撮ることに熱中していく。かつてピアニストを目指した母はそんな彼の夢を支えてくれるが、エンジニアの父(ポール・ダノ)は、単なる趣味としか見なさない。サミーはそんな両親の間で葛藤しながら、さまざまな人々との出会いを通じて成長していく。

 スティーブン・スピルバーグ監督が、映画監督になるという夢をかなえた自身の原風景を描いた自伝的作品。脚本はスピルバーグとトニー・クシュナー、撮影はヤヌス・カミンスキー、音楽はジョン・ウィリアムズ。

 スピルバーグが「私の作品のほとんどが、成長期に私自身に起こったことを反映したもの。たとえ、他人の脚本であろうと、いや応なく自分の人生がフィルム上にこぼれ落ちてしまう。でも、この映画で描いているのは、比喩ではなく記憶」と語るように、1950~60年代のユダヤ系アメリカ人の日常生活や家族の姿、差別などが赤裸々に映される。時代や場所は異なるが、ケネス・ブラナーの『ベルファスト』(21)と重なるところもある。

 前半は、『レディ・プレイヤー1』(18)でインタビューした際に、スピルバーグが「3人の妹たちに毎晩怖い話をして驚かせたので、父から『怖い話ではなく、いい話をしなさい』と怒られた」と楽しそうに語っていたような、和気あいあいとした家族の姿と、早くも映画監督としての才能の萌芽(ほうが)を感じさせるサミーの姿が描かれる。

 ところが、父が転勤するたびに引っ越しを繰り返し、やがて両親の間に不協和音が生じ始め、サミーも転校先でいじめに遭う後半は、雰囲気が一変する。ここでは、『未知との遭遇』(77)の家族の崩壊や、『E.T.』(82)の母子家庭の様子が重なって見えるところがある。その点でも、これはまさにスピルバーグの自己解放映画だと思った。

 そんな中、サミー(現在のスピルバーグ)が撮った家族の風景、西部劇や戦争映画、高校時代の記録を見ていると、まさに「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」という感じがする。

 好きなもの、熱中できるものを見つけることが大切だということは、最近の『さかなのこ』や、黒澤明の遺作『まあだだよ』(93)でも、内田百閒の言葉として「みんな、自分の本当に好きなものを見つけて下さい。見つかったら、その大切なもののために、努力しなさい。きっとそれは、君たちの心のこもった立派な仕事となるでしょう」と語られていた。

 この映画でも、サミーの大伯父(ジャド・ハーシュ)が似たようなことを語るが、先のインタビューの最後に、スピルバーグが「私もまだ大人になっていないが、映画監督をしているので何とかなってる」と笑っていたのを思い出した。

 映画(映像)という面に目を向けると、幼いサミーが、暗い部屋でフィルムを手に映し、手の平の上で動く絵に驚嘆するシーンは、インド映画『エンドロールのつづき』とも重なるいいシーンだが、この映画は「映画がいかに人々を楽しませ、照らし、暴露し、心を操り、神話化し、悪魔と化すか」「映像制作が人の心を打ち砕くこともある」(プレスシートの「バックストーリー」から抜粋)という映画が持つ多面性を描いている。

 人は映像に救われることもあるが、映像で傷つくこともあるということ。単なるノスタルジーやいい話ではなく、こうした、映画(映像)が抱える二律背反、功罪、光と影をきちんと示し、それでも映画は素晴らしいとしたところに、この映画の深みがある。そして、それがこの映画の感動的なラストシーンにもつながるのだ。