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歌手の庄野真代さんが率いるNPO法人「国境なき楽団」って? 東日本大震災で被災した生地でタペストリーを作って世界へ

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 「飛んでイスタンブール」や「モンテカルロで乾杯」のヒットで知られる歌手の庄野真代さんは現在、歌手活動と並行してボランティア活動にも力を入れている。

 2011年3月の東日本大震災で被災した生地でタペストリーを作り、それが世界各国に広まっているという。石巻のホールには、生まれ変わったこの生地で作られた緞帳(どんちょう)がある。

 庄野さんは2023年3月5日に東京小平市の「ルネこだいら」で「社会貢献は自分貢献!わくわくしよう!」と題して、1時間半にわたって講演を行った。主催は小平市民活動支援センターあすぴあ。

 1954年、庄野真代さんは大阪に生まれた。小学校時代は身体が弱く、趣味はもっぱら読書だったという。小学校4年までは給食も食べられず、昼になると父親が自転車で迎えに来て、自宅で昼食を食べてから学校に戻っていたという。

 高校時代はフォークソングに夢中となった。初めて作った歌のタイトルは「希望に向かって進む」。1975年にフォーク音楽祭で入賞。翌76年にデビュー。78年に5枚目のシングル「飛んでイスタンブール」がヒットして、NHKの紅白歌合戦にも出場を果たした。

 歌手としてのキャリア46年の庄野さん。しかし、その半分以上は並行してボランティア活動を行ってきている。そのきっかけとなるのが、思いつきで、バックパック一つ担いで80年からおよそ2年かけて回った28カ国132都市での見聞と経験だった。

 「今まで知らなかったことをまざまざと見せつけられました。タイに行った時に現地のバスの運転手と話をしたのですが、その人は『エビの養殖を増やすためにマングローブが伐採されて、島の人たちはますます貧しくなっている』と話した後、私に問いかけてきたのです―『エビを食べている日本から来たあなたはどう思いますか?』って」

 世界旅行を終えたあとは「チャレンジの日々」だったという。84年からは料理番組の司会に挑戦。ミュージカルにも進出。91年にはアジアでCDデビュー。99年には国連の環境イベントに参加した。チュニジアで環境を考えるイベントがあり、そのテーマ曲も作った。

 1999年は踏んだり蹴ったりの1年だった。事故と病気そして大手術を経験した庄野さんは「人間の命っていつどうなるかわからないと思いました。やりたくてやっていないことをノートに一つずつ書いていったのですが、その中に環境の勉強があったのです」。
 「そして、入院中にたまたま読んでいた新聞に『法政大学が人間環境学部を作って、社会人にも門戸を開く』とありました。受験して合格しました」

 2000年に晴れて法政大学の「女子大生」となった庄野さん。45歳だった。2001年には学内にボランティア団体を設立し、コンサートを「配達」するプロジェクトに取り組んだ。環境問題はものすごく幅広いことから、2002年、英ウェストミンスター大学に留学した。

 ロンドンでは、NGOの「オックスファム」でボランティアをする。「そこでボランティアの考え方を覆されました。私は奉仕というか主に肉体的な仕事だと思っていたけれど、自分の能力を活かしていろいろな仕事をするということだと教えられたのです。例えば、寄贈された本や服やレコードやCDを仕分けることもその一つでした」

 「私に割り当てられたのはレジ係。古いレジスターだったこともあり苦労の連続でした。それは私には向いていないと思って、自分の得意である歌を活かして、教会でアフリカ飢餓難民救済のためのチャリティーコンサートをやりました」

 「水に石を投げ入れると水面に波紋が広がるように、人がつながっていきました。そのコンサートのことを聞いた人からマレーシアでもやってほしいと言われたのです」

 法政大学を卒業後、2004年、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科に入学し、勉強を続けた。庄野さんは2006年にNPO法人「国境なき楽団」を設立。マレーシア、ケニア、トルコ、ベトナム、カンボジア、タイなどを次々に訪れた。

 「国境なき楽団」の活動の柱は主に4つ。まず、「TSUBASA」(心をつなげる活動)と名づけられた、訪問コンサート、チャリティーコンサートを行う取り組みだ。

 2つ目は、2001年9月11日に起きた同時多発テロで心が沈んだマンハッタンを元気づけようと翌年にニューヨークで始まったプロジェクト「セプテンバー・コンサート」。2004年に「国境なき楽団」はボランティアで参加。2005年からは日本主催者となって、「日本発セプテンバー・コンサート」として毎年開催している。

 3つ目は「海を渡る風」といわれる、日本で不要になった楽器を途上国の子どもたちに送る取り組みだ。「楽器に刻み込まれたその人の思い出。その楽器を大切に使ってもらいたいからと一生懸命に楽器を磨く子どもたちの思い」

 「ストリートチルドレン、AIDS孤児、ダウン症の子どもたちに楽器を届けるとみんな笑顔になるのです。私は『愛のリレー』だと思ってきました」と庄野さん。

 この取り組みは2011年「Make a CHANGE DAY大賞」を受賞した。ただ、現在は、その「海を渡る風」の活動は行っていないという。「東日本大震災をきっかけに多くの団体が楽器支援を始めたので、私たちは役割を終えたと思い、止めました」

 最後の4つ目の柱は「Com.Cafe音食―おとくら」。2009年、東京の世田谷区下北沢に食事・音楽・アート・イベントを楽しめるカフェをオープンした。ここでの収益は「国境なき楽団」の活動費に充てられている。

「庄野真代、支えあう社会を奏でたい」(ポット出版)
「庄野真代、支えあう社会を奏でたい」(ポット出版)

 庄野さんは語る。「音楽は世界の共通語です。音楽という道具、ツールが一番自分として使いやすいツールだったのです。それぞれの人にはそれぞれの人の使いやすい道具があって、それを使うことによってどんなことも可能になると思っています」
 「もうすぐ3.11がやってきます。悲しい出来事だったのですが、同時に人々の熱い思いを感じることもありました」

 東日本大震災後、庄野さんらは現地に約1カ月間、緊急支援物資をトラックで運び続けた。やや「落ち着く」と、支援物資へのリクエストもありました、と庄野さん。楽器も積んでいったことも。「つばさ号」と名づけられたトラックの両側には脳性まひの子どもが描いた絵を拡大したものがあしらわれている。