思い込みだけの政治―五輪開催の明確な説明を

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 政府与党が圧勝を予想していた東京都議会議員選挙は、惨敗といってもよい結果であった。菅義偉首相は、選挙結果を謙虚に受け止めると表明するのがやっとだったように見える。

 しかし、およそ謙虚さとは縁遠く、人の意見を聞く耳を持たない首相が、この結果をどのように受け止めて、民意に添った政策選択をするのだろうか。

 五輪開催の可否についての専門家たちの厳しい意見に対して明確な態度を示さず、時間をやり過ごすことによって、論点を観客の有無へとずらしてきた。外国選手団の来日が報じられるようになって、開催中止はもはや選択肢にはないといわんばかりである。このやり方は、責任ある判断を避けることが優先されたことによるものといってよい。

 現実には、東京都を中心とする首都圏の感染拡大が明確化する一方で、ワクチン接種の進捗(しんちょく)に懸念が生じたこともあって、都議選の結果とともに有観客を強行することの無理が明白化している。それは連立を組む公明党からも無観客を提案されたことにも表れている。

 そのために政府部内でも、これまでも無観客も想定していたとの弁明が出ている。それでも首相周辺からは有観客へのこだわりが強くにじみ出ていた。

 感染拡大に対処するために観客が密になるような行動さえしなければ安全・安心の大会が開催されるはずだという主張もある。ただ、このように観客となる国民に責任を押しつけることは、政府の無責任さを示す以外何物でもない。

 なぜ開催するのか、その意義は何かという疑問に、政府はいまだに明確には答えていない。選手団の結団式でも、菅首相は再度自らの1964年の思い出を語るだけである。しかし、コロナ禍で開催される五輪が、今の若い世代に、20年後、50年後に甘美な記憶として残ると期待するのは思い込みが過ぎる。

 彼らは、この2年間だけでも入学式や卒業式の中止、リモートでの授業などを余儀なくされて、コロナとともに苦い記憶を積み上げている。それらはすべて政府の感染対策の不備によって、感染がだらだらと続いているからにほかならない。この苦い記憶が五輪の開催によって塗り替えられ、忘れ去られることを期待することはできない。

 人事で締め付ければ自らの思い通りに何事も進むという勘違いが元凶であろう。学術会議問題で物議を醸し、「Go To」の強行で感染拡大を招き、急ぎすぎた緊急事態宣言の解除で感染抑制は中途半端となった。ワクチン接種も含めて見込み違いが続いた結果、4回目の緊急事態宣言に追い込まれた。それでも、首相は、観客の有無の判断を5者協議に委ね、「謙虚」さを発揮して政府方針を明言しなかった。徹底しているのは感染対策ではなく、責任回避の姿勢だけだ。

(東京大名誉教授 武田 晴人)

 

(KyodoWeekly7月19日号から転載)