「特集」 歴史的な円安 実質賃金の低迷 日銀、9月にも追加利上げか

 

木内 登英
野村総合研究所

主要企業は最高益更新

 主要企業の2024年3月期決算は、3年連続での最高益更新となった。野村証券の集計によると、税引き利益はプラス14・8%と2桁増である。新型コロナウイルスが感染法上の5類に移行して経済活動の正常化が進んだことや、原材料価格の上昇分の製品価格転嫁が進んだことが好業績の背景にある。ただし最大の収益のけん引役となったのは、円安進行だろう。

 円安の恩恵を大きく受けたのは、輸出型あるいは海外での活動比率が高いグローバル型の製造業だ。製造業の税引き利益はプラス15・8%と非製造業(除く金融)のプラス4・1%を大きく上回っている。

 好業績の代表格は、円安の恩恵に加えて、半導体不足の緩和が進んだ自動車で、その税引き利益はプラス59・3%と急増した。他方、製造業の中でも、価格転嫁が十分に進まず、原材料高が収益の逆風となったのが素材型製造業だ。化学の税引き利益はマイナス19・0%、鉄鋼・非鉄はマイナス14・9%とそれぞれ大幅減となっている。

 このように企業が総じて好業績を上げているのとは対照的に、日本経済全体はかなり低迷している。特に、物価高騰に見舞われた個人消費の弱さが際立っている。

 こうした異例の二極化傾向を生み出しているのは、やはり歴史的な円安だ。さらなる円安進行は、物価高騰と景気後退が重なる「スタグフレーション」のリスクを高めることになる。

日本経済に「マイナス」

 FRB(米連邦準備制度理事会)が22年3月に利上げ(政策金利の引き上げ)に踏み切ると、ドル円レートは1ドル=115円程度からドル高円安傾向を一気に強め、24年4月29日には、一時1ドル=160円まで円安が進んだ。これは34年ぶりの円安水準である。従来、円安は日本経済にプラスになると考えられていたが、足もとの円安についてはマイナスとの見方が多くなっている。背景には、日本経済の構造変化があるだろう。

 08年のリーマン・ショック(グローバル金融危機)後に、ドル円レートは一時1ドル=70円台まで超円高が進んだが、これを受けて、企業は貿易、生産体制を大きく見直したのである。

 輸出企業は円高による輸出競争力の低下を避けるため、生産拠点を海外へと積極的に移転させた。そして、海外の自社工場向けの部品や原材料の輸出を増やし、また、海外で製造した製品を国内に逆輸入する傾向も強めていった。

 このように貿易構造が変わると、円安で国際競争力が高まり、輸出数量が増えるとは単純には言えなくなる。また、海外の自社工場への部品や原材料の輸出、日本への自社製品の逆輸入という、同一企業内で国境を越えた貿易がなされる構図の下では、為替変動の収益への影響も相殺されやすくなる。

 他方、超円高のもとで、輸出企業も含めて日本企業は総じて、国内での製造過程で安い輸入原材料品を多く使うようになった。そのため、為替が円安に振れると輸入原材料価格が上昇し、企業の収益がより圧迫されるようになっていった。また、輸入原材料の価格の上昇は、国内製品の価格により転嫁されるようになり、物価高を通じて個人消費に強い逆風となった。

 このように、リーマン・ショック後の超円高を受けた企業の貿易、生産体制の見直しの影響から、円安による経済的メリットは従来よりも小さくなり、逆にデメリットは大きくなったのである。

輸入インフレ・ショック

 厚生労働省公表の4月分毎月勤労統計(速報)で、現金給与総額の増加率から消費者物価上昇率を差し引いた実質賃金は、前年同月比マイナス0・7%と、過去最長となる25カ月連続での低下となった。実質賃金の低下は、個人消費への逆風となる。

 今年の春闘では予想以上に高い賃上げでの妥結が相次いだが、それによって実質賃金上昇率が早期にプラスに転じ、個人消費の回復につながる可能性は低いだろう。

 再生可能エネルギー賦課金の増額、電気・ガス補助金の終了によって、5〜7月の消費者物価は毎月、前月比でプラス0・25%程度の急速なペースで上昇することが見込まれる。そのため、賃金上昇率が高まっても、実質賃金の改善効果は、その分減じられてしまう。

 さらに足元で進む円安によって、先行きの物価の上振れ懸念は高まっている。このような物価高を助長する諸要因によって、実質賃金がプラスに転じる時期は先送りされてしまったのである。実質賃金の前年同月比上昇率がプラスの基調に転じるのは、今年の年末頃になると予想される。

 ただし、年末に実質賃金上昇率がプラス基調に転じても、それだけで個人消費が力強さを増すわけではないだろう。22年以降、海外でのエネルギー・食料品価格の上昇、円安進行の影響を受けて、輸入物価は大幅に上昇した。日本は未曽有の「輸入インフレ・ショック」に見舞われたのである。物価上昇に賃金上昇が追い付かない時期が続く中、21年平均と23年平均との比較で、実質賃金は3・5%も低下してしまった。

 年末に実質賃金が前年同月比で上昇に転じるとしても、「輸入インフレ・ショック」前の水準にまで戻るのには、まだ何年も要するだろう。「輸入インフレ・ショック」の後遺症はまだ長く残るはずだ。

個人消費、超異例の弱さ

 6月10日に発表された1〜3月期GDP(国内総生産)統計(2次速報)で、実質GDPは前期比マイナス0・5%(年率換算でマイナス1・8%)と2四半期ぶりにマイナスとなった。そして実質個人消費は前期比マイナス0・7%と、4四半期連続でのマイナスとなった。実質個人消費が4四半期連続でマイナスとなったのは09年1〜3月期以来のことであり、かなり異例の弱さといえる。

 この時期には、リーマン・ショックという歴史的な経済危機が起こった。今回は、それに匹敵するような経済危機が起きていない中にもかかわらず、実質個人消費が4四半期連続マイナスとなった理由は、歴史的な物価高騰の影響以外には考えられないだろう。

 そして、抑えが効かなくなった円安は、物価高騰がこの先も続くとの個人の懸念を一段と強め、それを通じて個人消費を大きく損ねてしまっているのが現状だろう。この点から、円安に歯止めがかからない限り、個人消費の回復、経済の復調は難しいのではないか。

為替介入も円安続く?

 3月19日に、日本銀行は8年続いたマイナス金利政策を解除した。この政策転換は日米間の金利差を縮小させ、円安修正のきっかけになる、と当初は予想されていた。しかし、実際にはその後も円安傾向は続いたのである。

 日本が大型連休中だった4月29日の朝、ドル円レートは一時1ドル=160円台に乗せた。これを受けて、政府は2回の為替介入を実施したとみられる。財務省は、4月26日〜5月29日の為替介入額が9・8兆円だったと発表した。

 今後のドル円レートは、引き続き米国経済指標に大きく左右されるだろう。弱めの米国経済指標の発表が続けば、ドル円レートは4月29日の1ドル=160円が今年の円安のピークとなり、年内に1ドル=140円台半ばくらいまで円安の修正が進む可能性もあるのではないか。他方で、強めの米国経済指標の発表が続けば、1ドル=160円を超えて円安がさらに進む可能性がある。その場合、政府は再び為替介入を実施することが予想される。企業や家計の間から、物価高を助長する円安進行への不満が日に日に高まる中、円安対応を講じたことを国民にアピールするという政治的な狙いからも、政府は為替介入を実施するだろう。

 円安の進行は、目先だけでなく将来の物価上昇懸念を高めることを通じ、個人消費の強い逆風となり得るため、政府は円安進行を強く警戒しているのである。

 ただし、為替介入だけで円安の流れを変えることは難しい。日本銀行の「外国為替およびデリバティブに関する中央銀行サーベイ(22年4月中取引高調査)」によれば、日本の外国為替市場での1営業日あたりの平均取引高は4325億ドルだ。これは1ドル=155円で換算すると67・0兆円である。

 最近2回実施されたと考えられる為替介入の規模は9・8兆円だが、それは、日本での一日の外国為替取引高と比べるとかなり小さく、為替介入だけで市場の需給に大きな影響を与えることは難しいと考えられる。

 しかし、為替介入によって円安の流れを一時的に食い止め、時間稼ぎをすることはできる。為替介入は「時間を買う政策」ともいわれている。そして、円安阻止に向けた政府と日本銀行の連携強化の姿勢を、この為替介入と組み合わせることで、円安阻止の実効性は高まることが期待される。

政府と日銀、連携強化を

 現時点では、日本銀行は最短で今年9月に追加利上げを行うと筆者は予想している。他方、FRBも同じく9月に利下げを行うことが市場では予想されている。日米が逆方向に金融政策を修正するとの観測がこの先強まっていけば、為替市場ではドル高円安の動きが収まる、あるいは反転することが予想される。それまでの数カ月間、為替介入と政府と日本銀行の連携姿勢によって、どの程度円安を食い止めることができるかが注目されるところだ。
 日本銀行が政府との強い連携をみせれば、最悪のケースでも1ドル=165円前後で円安ドル高の流れを食い止めることができる、と現状では考えておきたい。
 日本経済が円安進行をきっかけにスタグフレーション的様相を強める、いわば「円安不況」に陥ることを回避できるかどうかは、為替の安定確保に向けた政府と日本銀行の強い連携にかかっている。

野村総合研究所 木内 登英​(きうち・たかひで) 1963 年生まれ。千葉県出身。早稲田大学政治経済学部卒業。1987年野村総合研究所入社。野村総合研究所ドイツ、野村総合研究所アメリカ勤務などを経て2004年野村証券に転籍。07年経済調査部長兼チーフエコノミスト。12年7月〜17年7月、日本銀行政策委員会審議委員。17年7月から野村総合研究所エグゼクティブ・エコノミストを務める。

(Kyodo Weekly 2024年7月1日号より転載)