パレスチナ自治区ガザで今も続く紛争が始まって間もなく1年が経過する。ガザ保健省によると、これまでにパレスチナ人約4万人が死亡し、9万2千人が負傷、行方不明者は1万人に上る。死者のうち1万600人以上が子どもで、5千人以上を女性が占めており、この紛争がいかに無差別に民間人を巻き込んでいるかを表している。一方、イスラエルでも1100人余りが死亡し、人質として連行された251人のうち100人前後がまだ解放されていない。争いがここまで長期化し、非人道的な事態を招くと予想した人はどれくらいいただろうか。
私は、ガザで医療・人道援助活動を行う国境なき医師団(以下、組織創設の地フランスの名称の頭文字を取ってMSFと表記する)の緊急対応チームの一員として、昨年11月に約3週間、ガザで医療援助活動にあたった。MSFは現在も継続して、約700人の現地スタッフと約35人の国際スタッフが、地区内10カ所の医療施設で活動している。本稿では私の派遣時の様子を振り返るとともに、現地で医療活動を続ける組織の立場から問題点を指摘したい。
圧倒的破壊前に無力感
私がガザへの派遣要請を受けたのは昨年10月14日だった。「これは絶対行く」─参加を即決した。医療不足で苦しむ世界の人たちの力になるために医師を志した自分にとって、迷いはなかった。夫を含む家族も、心配しながらも理解してくれた。エジプトでしばらく待機を強いられたが、11月14日朝、ラファ検問所からガザへ越境。13人からなる多国籍のチームは、各自が10日間は自給自足できる水・食料を持って入った。初日の夜からイスラエル軍のドローンの音が常に聞こえ、その後も、「ドーンドーン」という空爆の音を何度も聞き、揺れる部屋の中で死を覚悟したこともあった。
医療援助活動を行ったのは、ガザ南部ハンユニスのナセル病院。保健省が運営する地域の中核病院だ。ここで私は、麻酔科医として手術麻酔に対応するほか、救急医として救急救命室でも活動した。空爆で重傷を負った患者が10人、20人と一度に運ばれて来ることも度々あり、廊下やロビーにあふれる患者に、スタッフ総出で対応した。しかし爆撃の被害に遭っても病院まで来られる人はほんの一部だった。目の前の患者の後ろには、さらに多くの死があった。
印象に残っている患者がいる。空爆の被害に遭った10歳の少女だ。足が粉々に骨折し、重度の熱傷も負っている。瀕死(ひんし)の状態で人工呼吸器につながれてかろうじて生きていた。なんとか救命したものの、足の傷は壊疽(えそ)が進み、切断しないと命が危ない。切断手術のためには家族の同意が必要だがこの子の家族は全員空爆で亡くなってしまっていた。ガザの医療関係者の間では「WCNSF」という言葉が使われる。Wounded Child No Surviving Family─負傷した子どもで、生き残った家族がいない、ということを意味する。結局少女は切断手術をすることになったが、その順番を待っている間に感染が進み、受傷後数日で息を引き取った。なんとか救命処置をしても、この少女のように、受けた傷が深すぎて数日で亡くなる例が多かった。「もし生き延びても、家族を全て失った子どもたちの人生は、その後どうなるのか。命をつなげることの意味は何なのか」、自問したが答えはない。私はシリアやイエメン、イラクでも活動経験があるが、ここまで戦争の圧倒的な破壊力を思い知らされたことはなかった。この破壊力を前に、自分たちができる人道援助はあまりにも小さいと、無力さを痛感した。
安全な場所なし
昨年10月以来、ガザの面積の86%はイスラエル軍による退避要求下に置かれ(国連人道問題調整室=OCHA 8月21日)、現在約190万人、実にガザ人口の90%が国内避難民となっている(国連パレスチナ難民救済事業機関=UNRWA、9月6日)。中には10回以上に及ぶ避難を強いられた人もいる。彼らはそのたびに仮住まいを転々とし、過密な場所に詰め込まれ、十分なシェルター、食料、水、医療、安全の保証もない。
退避要求の出ていない「安全」とされる場所は次第に狭まり、現在は西部マワシ地区の狭いエリアに避難民が集中している。OCHAによると同地域の人口密度は、昨年10月以前は1平方キロ当たり推定1200人だったのに対し、現在では推定3万~3万4千人にまで膨らんでいる。
しかしイスラエル軍は、難民キャンプや人道援助物資の倉庫など、いわゆる「安全地帯」を含むガザの一部を繰り返し空爆している。それらはイスラエル軍によって正式に「非戦闘地域」として登録されているにもかかわらずだ。7月から8月にかけて、避難所となっている学校に対する空爆は21回に上り、女性や子どもを含む少なくとも274人が死亡した。私が活動したナセル病院も退避要求が出ている地域からわずか1キロしか離れていない。
十分な食料が手に入らないことによる栄養失調の他、不衛生で劣悪な生活環境は、疥癬(かいせん)などの皮膚感染症や胃腸障害など、健康に直接影響を及ぼしている。MSFが支援する医療施設でも、これらの症例が数多く見られる。水道システムの破壊を含む、インフラへの執拗(しつよう)な爆撃が10カ月間続いた後、清潔で安全な水は入手困難なまま放置されてきた。国連によると、ガザにある水・衛生施設の少なくとも半数が破壊・損壊され、ガザの住民の約70%が塩分を含んだ水や汚染された水を飲んでいるという。この夏、ガザで25年ぶりのポリオの集団感染が確認され、子ども64万人に対する予防接種が行われたが、感染症のアウトブレイクに対処するための保健システムは極めて不十分だ。
「目に見えない死」
ガザの医療ニーズが急増する一方で、医療体制は事実上崩壊している。世界保健機関(WHO)によると、現在ガザにある36カ所の病院のうち20カ所は稼働していない。また昨年10月7日以降、医療施設に対する攻撃は504件に上り、880人以上の医療従事者が殺害され、少なくとも287人の援助従事者が殺されている(OCHA)。
MSFとて例外ではなく、これまでにスタッフ6人の命が奪われた。その中には北部のアル・アウダ病院の患者に最後まで寄り添った医師2人や、北部で激化した戦闘から避難する途中に銃撃を受けたボランティア看護師もいる。いずれの場合もMSFは、病院が稼働中でスタッフや患者が中にいることや、避難する車列の移動経路や時刻を、イスラエル軍を含む紛争当事者に伝えていた。
これまでのMSFに対する攻撃は通算26件に上り、病院への空爆、地上攻勢、包囲、車両や医療機器の破壊、スタッフの避難所や物資輸送隊への砲撃などが含まれる。また、医療スタッフや患者が拘束され、場合によっては虐待される場面も何度か目撃してきた。こうした攻撃や不当な拘束の他、退避要求の影響もあり、MSFが活動する医療施設から退避するという苦渋の決断を取ったケースは14件に上る。
ガザでは各地で同時多発的に続く攻撃と、繰り返される退避要求によって、医療へのアクセスはさらに低下している。医療施設のある地域での退避要求は、たとえその命令に医療施設そのものが含まれていないとしても、患者や医療スタッフがその施設に行くための安全は保証されない。また、患者や救急車の出入り口や周辺道路が損壊しているなど、物理的な障壁のために容易にアクセスできない場合もある。砲撃や戦闘による死傷者に加え、多くの「目に見えない死」が起きている。例えば、感染症、透析を受けられない腎不全患者や、過密状態のため受診がかなわなかった合併症のある妊婦など、予防できた症状で命を落とした人や、紛争のために糖尿病、高血圧、不整脈などの慢性疾患医療が中断された人だ。
医療や患者に対するこうした攻撃や退避要求は、この紛争が国際法や人道の基本原則を露骨に無視し、医療・人道援助活動を尊重する措置を放棄していることを示している。
「人道援助」道具にするな
イスラエルによる封鎖と継続的な援助物資の輸送妨害により、ガザでは食料、水、燃料、医薬品などの必需品の入手は非常に難しい状態が続く。MSFが使用する医薬品や医療機器の輸送にもひどい遅れが生じている。これは物流の問題ではなく、政治的な問題だ。イスラエル当局の公式見解ではガザ住民に安全と最低限のサービスは提供されているとのことだが、これは国際人道法を順守しているという建前を維持するための、人道援助を道具にしたプロパガンダだ。多くの検問所は閉ざされたままで、人道援助は拒否あるいは著しく妨げられており、人びとの膨大なニーズを満たすことはできていない。
ガザに関する「総合的食料安全保障レベル分類(IPC)」の報告書によると、49万5千人以上(人口の22%)が、「壊滅的飢餓、または、飢きん(IPCフェーズ5)」の深刻な食料不安に直面しており、紛争が続き人道アクセスが制限されている限り、ガザ全域で高い飢きんのリスクが続くだろう。
イスラエル軍による執拗な爆撃や砲撃、人道援助の妨害、援助物資の分配を確実にするための治安メカニズムの欠如は、ガザの法と秩序の崩壊をもたらした。ガザでは援助トラックからの略奪や物資の密輸が増加している。占領国であるイスラエル政府は、人道援助を必要とする人びとに安全かつ効果的に届くようにする責任を負っている。目下の課題は主要輸送路になっているケレム・シャローム検問所の混雑緩和と、物流の大幅な拡大だろう。MSFはまた、全ての当事者(イスラエル、ハマス、その他パレスチナ武装勢力)に対し、ガザ内で人道援助の人や物資を移動させるための安全なルートの確保を求めている。
選択肢は「停戦」のみ
MSFはイスラエルに対し、虐殺を直ちに停止するよう求めるとともに、米国、英国、その他の影響力のある国々に対し、イスラエルに攻撃停止を促すよう要請している。軍事的な援助を含め、現段階でイスラエルを支援している全ての国は、道義的にも政治的にも虐殺に加担していると言える。
ガザの人びとは、即時かつ持続的な停戦を必要としている。国際人道法の原則が繰り返し侵害され、人道援助が組織的に妨げられている。停戦に失敗すれば、さらに多くの人命が失われ、国際社会の良心に汚点を残すことになるだろう。
最後に断っておくが、独立・中立・公平な立場で活動する組織としてMSFはイスラエルとハマス、全ての当事者に停戦を求めている。また当初、イスラエルにも医療援助を申し出ているが、これまでのところ受け入れの要請は来てない。また、ガザのみならずヨルダン川西岸の状況も深刻であり、MSFも現地での活動の中で、イスラエル当局や入植者からのパレスチナ人に対するさまざまな攻撃、暴力、いやがらせ、医療への妨害行為などを目撃しているが、本稿では紙幅の関係で割愛した。
国境なき医師団日本会長 中嶋 優子(なかじま・ゆうこ) 1975年生まれ、東京都出身。救急医・麻酔科医 札幌医科大学卒業後、沖縄米海軍病院で初期研修。米国の医師国家試験に合格、救急専門医を取得。2017年よりアトランタ・エモリー大学救急部の助教授を務め、24年准教授就任。現在メトロアトランタ救急搬送組織の医療ディレクターも兼任。09年MSFに登録以来、シリア、イエメンなど海外派遣活動は計8回。22年3月より現職。
(Kyodo Weekly 2024年9月23日号より転載)