フィナーレ迎える〝小池劇場〟 帰る場所はありやなしや 

フィナーレ迎える〝小池劇場〟 帰る場所はありやなしや  画像1
写真はイメージ

 7月4日に投開票された東京都議選では、自民党が大勝すると見られていた。だが、ふたを開けてみれば、比較第1党に返り咲いたものの、獲得議席は告示前をわずか8議席しか上回らなかった。菅義偉政権のコロナ対策や東京五輪・パラリンピック開催方針への根強い不満と批判が根底にあったことに加え、小池百合子都知事の“奇策”が影響したことも間違いない。

 

 「初の女性総理」の呼び声が高かった小池氏も来年、古希(70歳)を迎える。「オリパラ後に何らかのサプライズがある」(全国紙デスク)との予想がある一方、「さすがにもう国政復帰はないだろう」(自民中堅議員)との見方も強い。

 衆院の任期満了まであと3カ月、小池氏には今、オリパラの選手以上に強いスポットライトが当たっている。

 極論ながら、4年前の都議選では、ビラに小池知事とのツーショット写真を載せれば、誰でも当選できた。だが、あのときの追い風はもはや吹かず、今回の選挙では、都民ファースト(都民ファ)の苦戦が伝えられた。小池氏は「生みの親」で現在も特別顧問でありながら、当初、コロナ対応に忙殺されていることを理由に応援姿勢を見せなかった。

 小池知事が告示直前の6月22日に緊急入院すると、永田町では「裏で自民党と手を握った」「自分が生き延びるために都民ファを見殺しにする」などとささやかれた。

 もっとも、「自分でまいた種」かどうかはともかくも、小池知事が過度の疲労と、ペットロスで体調を崩したことは確かなようである。

 しかし、そこからがまさに“小池流”の神髄であった。退院後の記者会見では声に張りがなく、顔もいささかやつれ、一気に同情を集めた。「女子の本懐」に続く「倒れても本望」との芝居がかったせりふも、小泉純一郎首相(当時)の「郵政民営化を実現できれば、俺は殺されてもいい」を彷彿(ほうふつ)とさせた。

 さらに選挙戦最終日には電撃参戦し、酸素ボンベを引きずりながら、都民ファ候補の激励に駆け回った。周りからの強い要請もあっただろうが、小池氏は巧みにリスク計算をし、本能的に動いたといえる。もしも最後まで動かなかったならば、都民ファの獲得議席に関わりなく、「政治家・小池百合子」は終わっていただろう。

 都民ファは告示前の45から31まで議席を減らし、第1党の座も自民党に明け渡すことになった。だが、その自民党も決して勝利を収めたわけではなかった。自民党東京都連の鴨下一郎会長は「勝者なき都議選」と形容したが、このバランスの取れた選挙結果によって小池知事の負った傷は、かすり傷程度で済んだ。

 のみならず、なんだかんだ言っても、小池知事の支持率は依然として6、7割と高く、菅内閣の倍近くもある。存在感も注目度もすこぶる高い。絶妙な行動と微妙な選挙結果も影響して、今も知事続投と国政復帰の二つの選択肢が小池氏の手中にある。

 そう考えると、「勝者なき」とはいうものの、唯一の勝者は小池知事だったといえなくもない。都議選の結果を見て、小池氏と交流のあった元自民党議員は、「さすがは海千山千の小池氏だ」と苦笑いを浮かべた。

 

処世と才能発揮の30年

 

 いつの頃からか“政界渡り鳥”は小池氏の代名詞となった。日本新党の議員としてバッジを付けた小池氏だが、新進党、自由党、保守党と渡り歩き、気が付けば自民党にいて、2008年には総裁選にも挑んだ。選挙区も、最初は参院比例区だったが、衆院に転じる際は兵庫県に移り、郵政選挙では“刺客”となって東京10区にくら替えした。

 小池氏は、細川護煕元首相や小沢一郎氏、小泉元首相など、時の権力者の側近として政界の表舞台に上がることにも成功してきた。

 小池氏を敵視する者は「取り入るのがうまい」「利用価値がなくなればポイと捨てる」などと言うが、「権力者のほうも華やかな彼女を利用してきた。持ちつ持たれつの関係だった」(閣僚経験者)といえる。

 時の権力者の庇護(ひご)があっただけではない。「小池氏には世論の動きを見据える動物的な勘があり、横文字とパフォーマンスは鼻につくが、自分の言葉で発信する能力が極めて高い」(前述の自民中堅議員)という。確かに都知事としての記者会見も、菅首相よりはるかにうまく、また注目されやすい。

 嫉妬されたり、批判されたりしようが、小池氏は確実に場数を踏み、それぞれの舞台で一定の合格点をたたき出してきた。「クールビズ」も、小池氏が環境相時代に熱心に旗を振って浸透させた国民運動である。女性初の自民党総務会長や防衛相も務めた。もともとの強い野心に加え、わが国の“ガラスの天井”にひびを入れながら、小池氏は迷うことなく総理の座を目指した。

 しかし、脇役ではなく、舞台で主役を張れるようになると、小池氏にとって永田町は住みにくい世界となった。

 たとえ時代の寵児(ちょうじ)になり得ても、仲間が多くない小池氏にとって「数が力」の永田町では活躍の場が限られた。2016年に永田町を離れ、東京都のトップになるが、それはまさに需要と供給の一致からである。

 そして保守でありながら自民党と対峙(たいじ)する姿勢は、保守二大政党制を理想とする多くの有権者から一定の支持を得ている。

 もちろん都知事になってからも、小池氏は総理の座を目指した。小池氏にとって都知事になることは、総理の座への迂回(うかい)路にすぎなかった。かつて細川氏が参院議員から熊本県知事になり、国政復帰を果たした翌年に首相に就いたのと同じパターンで、小池氏は虎視眈々(たんたん)と国政復帰の機会を狙ってきた。

 

最後のチャンス?

 

 だが、小池氏には大きな誤算があった。5年前に300万近くの爆発的な得票で都知事になった小池氏は新党を結成し、いずれその党首から政権を担う方法をもくろんだ。実際、2017年に民進党を切り取る形で希望の党を結成したが、自身のいわゆる「排除」発言がきっかけとなり、新党への期待は急速にしぼんでいった。

 オリパラとコロナ禍は、小池都知事のマスコミへの露出を確実に増やした。その一方、オリパラが1年間延期され、またコロナ禍がなかなか収束しないため、小池氏のシナリオにも大きな狂いが生じはじめた。

 もしも、コロナ禍が起きず、オリパラが昨年、無事に開催されていたならば、小池氏はさっさと国政復帰を決断していたはずである。

 しかし、国政への復帰を諦めかけていた小池氏に、今まさに最後の大きなチャンスが訪れている。

 菅原一秀・前経済産業相が公選法違反で辞職し、なおかつ3年間の公民権停止処分を受けたため、次期衆院選における東京9区の保守系候補がいなくなった。衆院議員時代の小池氏の地盤は、まさに9区と隣接する。

 奇策に長ける小池氏の決断を予想することは容易ではない。自身の国政復帰説について「私はそういう意思を一度も言ったことはない」と真っ向から否定したが、オリパラが終われば小池氏の東京都への関心は失せ、再び国政に戻ってくると見る者はいる。中谷元・元防衛相などは早くも「小池新党と保守合同すべき」などと口にする。

 

復帰待望論も

 

 一方、「復帰はあり得ない」(別の閣僚経験者)と断言する者もいる。その理由として、コロナ禍が収束しない中、みずからの野心のために都知事の椅子を投げ出せば、国民の信頼を失うことをあげる。

 また、「任期途中での辞任が相次いだため、この10年間、東京で3回も余計に知事選が行われ、1回につき50億円近くが費やされた。彼女は昨年、再選されたばかり。こんなときにまた知事選をやれば、大ひんしゅくを買う」とする。

 さらに、もはや永田町に小池氏の帰る場所はないと言い切る者もいるが、国民民主党などにはむしろ復帰待望論がある。自民党の二階俊博幹事長も、「国会に戻るならば大いに歓迎だ」と意味深長な言葉を残している。

 もちろん、決めるのは小池氏本人である。菅首相に代わり得る有力な首相候補がいないこともあり、オリパラ後、小池氏が都政に見切りをつけ、国政に戻って最後の勝負に挑む可能性は決してゼロではない。

 ただ、いかなる理由にせよ、次の衆院選で主役本人が国政復帰を果たさなければ、“小池劇場”は静かに幕を下ろしていくことになる。「乞うご期待」とは次の展開に期待を持たせる言葉だが、これから3カ月も経たないうちに、“小池劇場”のフィナーレが垣間見られる。

【筆者】

政治行政アナリスト・金城大学客員教授

本田 雅俊(ほんだ・まさとし)

 

(KyodoWeekly7月19日号から転載)