オフトゥンから出たくない。
なぜ人間はオフトゥンから出る道を選んでしまったのだ。
朝、起きるたびに思う。
私は朝起きるのがうまくない。
満員電車に乗るのも苦手だし、仕事を始める気分を頭の中に設定するのも時間がかかる。
総じて、人生が下手くそなのである。
昔はよかった。
30代までは朝とは寝る時間であった。
夜通しゲームをして、東の空が白み始めるころ、近所のファミレスのモーニングを食べてそのままオフトゥンに潜る。
夜を有効に活用した満足感で心はいっぱいに満たされる。
午後に至ると、おもむろにオフトゥンから抜け出すが、ラッシュに巻き込まれないので朝起きほど気分が沈み込まない。駅に行けばそれなりの人出があるが、この時間の出勤となると人流には完全に逆行しているのでうっかり死にたくなるほどのプレッシャーは感じない。
学生さんや事務の人が帰宅していく夕方頃に本格的に仕事に着手すると、一人で作業できて本当にいいのである。
それが。
子どもが生まれたりすると、本当に生活というものは否応なく朝方になってしまう。
人生で一番不得意だった朝起きを毎日繰り返しているのである。学生の頃の自分に言ってやっても、きっと信じないだろう。自分が午前中に起きられる人間だったなんて!
しかし、もともと午前中に起きる才能がないのに、無理に無理を重ねて早起きをしているものだから、どうしても気持ちがすさんでくる。
そのとき、人生を上手く生きているエクセレントパーソンを見上げ、「ぼくもあんなふうに生きよう」と思えればいいのだろう。しかし、私の頭は上を向くように設計されていない。精神的にもそうだし、物理的にも長年のゲームプレイで極端な猫背になっているのだ。まったく身体とは精神の器である。気持ちのありようを体が体現している。
下を向いたまま精神の健全性を保つには、自分より調子の悪い人を探せばよい。「さすがにあの人よりは自分のほうがちゃんとしていそうだ」という認識は、羽毛のオフトゥンに包まれたような安心感を与えてくれる。なんと後ろ向きかつコンプラ的に問題のある精神安定手法だとわれながら思うが、後ろ向きな人間には後ろ向きな手法が似合うのである。
ところが、私ほどの人生下手になると、下に見ることができる人がそうそういないのである。起きることに失敗し、歯磨きペーストが飛び散り、靴の向きに不吉を感じ、とにかく家を出る前に心が折れるのである。手近なところでTwitterなど見てみても、割とみなさんきらきらしていて、起きることに失敗した話は出てこない。
そこでカフカである。
いいじゃんカフカ。
いつだって後ろ向き。いっそ下向きか。あの人生の姿勢は大好きである。大好物。後ろ向き仲間ほど、自分を安心させてくれる者もない。
ところが、カフカってあんなに後ろ向きなのに、結構多作なのである。
「神経質の雨が
いつもぼくの上に降り注いでいます。
今ぼくがしようと思っていることを、
少し後には、
ぼくはもうしようとは思わなくなっているのです」
「結核はひとつの武器です。
ぼくはもう決して健康にならないでしょう。
ぼくが生きている間、どうしても必要な武器だからです。
そして両者が生き続けることはできません」
うん、知ってる。学生のころに読んだ。あの後ろ向きな珠玉の言葉たちに触れたい。「ああ、俺の方がましだ!」と心から思いたい。しかし、どこにあるかわからん。全文を目視検索するにはカフカの著作は多い。
そこで! この「絶望名人カフカの人生論」(飛鳥新社、2011年)である。
全体的に後ろ向きなトーンのカフカの著作群の、さらに極めつけに後ろ向きな記述やセリフを余すところなくまとめてくれている。本書のページをめくれば、どんな後ろ向きな言葉にも素早くアクセスできるはずだ。実際にこの記事を書くために、久しぶりに読み返してみた。いい! 不治の病を得てからのカフカのなんて溌剌(はつらつ)としてること! 生まれ落ちてから初めて、人生を満喫したのではないだろうか。カフカは後ろ向きなことに対して常に前向きである。
存分にカフカの絶望を味わい。「カフカよりは自分の方が前を向いて生きてる」と安心し。今日もオフトゥンから抜け出そうと思う。
【著者略歴】
岡嶋 裕史(おかじま ゆうし) 中央大学国際情報学部教授/学部長補佐。富士総合研究所、関東学院大学情報科学センター所長を経て現職。著書多数。近著に「思考からの逃走」(日本経済新聞出版)、「インターネットというリアル」(ミネルヴァ書房)、「メタバースとは何か」(光文社新書)など。