連絡途絶えた知人の行方

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ヤンゴン郊外の集落で国軍とみられる部隊に焼き討ちされた虐殺現場=4月(提供写真)

 クーデターで国軍が権力を掌握したミャンマーで訴追された、フリージャーナリストの北角裕樹さん(45)が5月半ばに解放され、帰国した。険しい表情で成田空港に到着したその姿をテレビで見て、私はもう1人の男性のことを考えていた。

 その男性は、最大都市ヤンゴンで取材をしているミャンマー人カメラマン、チョーさん(仮名)である。初めて連絡を取ったのは2月半ばで、ツイッターを通してだった。2月1日にクーデターが起きてからすでに2週間が経過しており、ヤンゴンやマンダレーなどでは、抗議デモが日に日に盛り上がりをみせていた。ところが、現地在留邦人の声が、報道を通してあまり伝わって来ない。銀行のATMは停止し、ショッピングモールは閉鎖され、経済がまひするという非日常の中、彼らはどんな生活をしているのか。

 私はかねてからアジアの在留邦人の取材を続けてきたため、気になって仕方がなかった。同じくツイッターで何人かの在留邦人に連絡を取り、取材を開始。街に出て写真を撮ってもらうのは危険だと考え、ミャンマー人ジャーナリストをツイッターで探していた。そこで見つけたのがチョーさんだった。しかも投稿の日本語が流ちょうだ。早速、メッセージを送り、LINE電話で話をした。聞けば日本在住歴が長かった。それにしても便利な世の中になったものだ。2007年にヤンゴンで起きた、僧侶たちのデモの時には考えられない取材方法だ。

 チョーさんには、ヤンゴン市街の様子を撮影してもらった。デモ隊で埋め尽くされた広場、国軍の銃弾に倒れた犠牲者の追悼集会、閉鎖された高級ホテル…。いずれの写真も、撮影者の視点と情熱が伝わってきた。

 それを記事とともに週刊誌に掲載した。2回目の掲載では、チョーさんが自宅から目撃した、真夜中に銃声が鳴り響く緊迫感を伝えた。3回目は、国軍に焼き討ちされた虐殺現場のルポだった。死者6人、重軽傷者16人が出た集落に行ってもらい、生き残った住民たちから聞いた話をまとめたのだ。その際にチョーさんから聞いた言葉が、脳裏に焼き付いている。

 「もし僕に銃があったら、国軍兵士を全員撃ち殺したい。水谷さんもこっちに来たら、絶対にそう思いますよ!」

 国軍の弾圧は続き、デモの勢いはすでに弱まっていた。インターネットの遮断も強化された。そんなさなかの4月半ば、チョーさんから電話がかかってきた。

 「パスポートの有効期限が間もなく切れるので、日本に帰国しようと思います。ミャンマーでの更新は難しいから」

 この会話を最後に、私はチョーさんと連絡が取れなくなった。

 今、どこで何をしているのだろうか。その無事を祈るとともに、軍政下のミャンマーで取材をする難しさと現実を、突き付けられたような気がした。

 ノンフィクションライター 水谷 竹秀

 

(KyodoWeekly5月31日号から転載)