カルチャー

【スピリチュアル・ビートルズ】「死んでもらいます」じゃなくて「笑ってもらいます」

1965年10月26日、ビートルズはバッキンガム宮殿でMBE勲章を授与された。
1965年10月26日、ビートルズはバッキンガム宮殿でMBE勲章を授与された。 写真:共同通信社

 今回は司馬遼太郎氏ではないが「閑話休題」。

 高倉健主演の任侠映画の決め台詞は「死んでもらいます」だが、ここでは「笑ってもらいます」。ビートルズの代表的なジョークなどを紹介したい。

★1962年6月6日。ビートルズに興味を持った英国一の名門レコード会社EMIの傘下のパーロフォン・レーベルのプロデューサー、ジョージ・マーティンによるオーディションが行われた。それが終了したあと、彼らは押し黙ってジョージ・マーティンのアドバイスを聞いていた。最後にジョージ・マーティンが「君たちも何か言いたいことがあったら言いなさい」というと、ジョージ・ハリスンが彼をまじまじと見て「そうですね。まず、あなたのネクタイが気に入らない」。一同は吹き出してしまったという。

★デビュー当時、リンゴ・スターは人気の点で他の3人にかなわなかった。リンゴ曰く「ビートルズで一番好きな人の人気投票をしても、ぼくは一番にはなれないだろう。でも二番目に好きな人の人気投票をやれば、一位になれると思うよ」。

★1963年11月4日。ロンドンのプリンス・オブ・ウェールズ劇場でのロイヤル・バラエティー・ショーにビートルズは出演した。これは一流のアーティストたちがエリザベス女王ら皇族の方々の前でパフォーマンスするチャリティーだった。「フロム・ミー・トゥー・ユー」から始まったショーだったが、締めの曲「ツイスト・アンド・シャウト」を演奏する前にジョン・レノンは言った。「最後の曲では皆さまのご協力をお願いします。安い席の方々は拍手を。そのほかの方々は宝石をジャラジャラ鳴らしてください」。

★1964年1月半ばから2月初めまでパリのオランピア劇場で行われた長期公演に際して、ビートルズは記者会見を開いた。その席で「エリザベス女王についてどう思うか」とたずねられてジョージは一言、「タイプじゃないよ」。

★1964年2月7日、アメリカ上陸を果たしたビートルズは、ケネディ空港に着くと記者会見に臨んだ。記者に「あいさつ代わりに、何か歌ってください」と言われてジョンは「やだね。まず先にカネをくれなきゃ」。
 リンゴに対しての「どうして、そんなにたくさん指輪をしているのですか」という質問には「だって鼻にはできないもの」と彼は答えた。
 ベートーベンについてどう思うかとたずねられたリンゴは「好きだよ。特に彼の詞がね」。
 「成功の秘密は?」と問われて、ジョンは「それがわかれば、ビートルズなんてやめて、今ごろ新しいグループを持って、そのマネージャーにおさまっているさ」と答えた。

★1965年2月下旬から3月半ばまでの二作目の主演映画『ヘルプ』のバハマでのロケ中にインタビューが行われた。その終わり近くにポール・マッカートニーが「今までぼくたちが聞かれたことのない質問がひとつも出ないじゃない」と言うと、質問者は「では、インタビューで聞かれたことのない質問はありませんか?」と問うた。するとリンゴが即座に「それもはじめてじゃないよ」。

★1965年6月12日、ビートルズの4人が、ロックシンガーとして初めての、そして史上最年少の五等勲功章(MBE勲章=Member of the Order of the British Empire)をエリザベス女王から授与されることが決まり正式発表された。すると、ビートルズと一緒にされてはたまらないとして、勲章を返上する人が続出した。ジョンは辛辣だった。「ぼくたちが勲章をもらったことにケチをつけた連中の多くは、戦争での『英雄行為』で勲章をもらった人たちだった。そこへいくと、ぼくたちは平和的な受勲者だ。彼らは人を殺して勲章をもらったわけだけど、ぼくらは人を殺さずにもらったのだから」。

★1965年10月26日、バッキンガム宮殿でのMBE勲章授与式で、エリザベス女王が「長いこと一緒にやっているのですか?」とたずねると、リンゴとポールが一緒に答えて言った。「ええ、40年ほどやっています」。

★1966年6月29日、ビートルズが来日した。ヒルトン・ホテルでの記者会見で、彼らに日本武道館を使わせることに一部で異議が唱えられたことについて聞かれて、ポールは「もし日本の舞踏団がイギリスの王立劇場に出演しても、それがイギリスの伝統を汚すことにはならないと思う。私たちもあなた方と同じように伝統を重んじる」と返した。
 その席で、記者からMBE勲章を持ってきたかと聞かれると、ジョンは自分の目の前にある飲み物の入ったコップの下に敷いてあった紙のコースターをヒラヒラさせて言った。「ここにあるよ」。外国人記者たちには特にうけたという。

★1969年のアルバム『アビー・ロード』発売と前後して、ポールがすでに交通事故で死亡しており今いるポールは替え玉だという「ポール死亡説」が広まった。それを聞いたリンゴは「まだ葬式の案内状がきていないけどな」。マスコミに執拗に追及されたポールは声明を発表。「ぼくは死んでいない。死んだはずの本人が言っているのだから間違いない」。

★1969年11月25日、ジョンはMBE勲章を突然返上した。同封した手紙には「イギリスのナイジェリア/ビアフラ紛争への介入、ベトナム戦争でのアメリカへの支持、そして私のシングル曲“コールド・ターキー”(冷たい七面鳥)がヒット・チャートから落ちたことに抗議して、返還いたします。愛を込めて、ジョン・レノン」とあった。

ビートルズ本
左:「ビートルズ・エピソード550」(香月利一 著/立風書房 刊) 右:「P.S.アイ・ラブ・ビートルズ」(香月利一 著/講談社 刊)

 今回のコラムは日本におけるビートルズ研究の先駆者のひとりだった故香月利一氏に捧げたい。彼の著書「ビートルズ・エピソード550」(立風書房)、「P.S.アイ・ラブ・ビートルズ」(講談社)を参考にさせていただいた。また藤本国彦氏らによる「ビートルズ・ストーリー」シリーズ(音楽出版社、ファミマ・ドット・コム)、「ザ・ビートルズ・アンソロジー」(リットーミュージック)なども参照したことを付け加えておきたい。

 

著者:桑原亘之介

 


桑原亘之介

kuwabara.konosuke

1963年 東京都生まれ。ビートルズを初めて聴き、ファンになってから40年近くになる。時が経っても彼らの歌たちの輝きは衰えるどころか、ますます光を放ち、人生の大きな支えであり続けている。誤解を恐れずにいえば、私にとってビートルズとは「宗教」のようなものなのである。それは、幸せなときも、辛く涙したいときでも、いつでも心にあり、人生の道標であり、指針であり、心のよりどころであり、目標であり続けているからだ。
 本コラムは、ビートルズそして4人のビートルたちが宗教や神や信仰や真理や愛などについてどうとらえていたのかを考え、そこから何かを学べないかというささやかな試みである。時にはニュースなビートルズ、エッチなビートルズ?もお届けしたい。