ジョン・レノンがいわゆる「キリスト発言」で世界中、なかでも特に米国のキリスト教信者を怒らせたのが1966年のことだった。それから42年経った2008年、ローマ法王庁はジョンの問題発言を赦す声明を発表した。
ジョンの発言をふりかえってみよう。25歳の彼の言葉だ。「キリスト教はなくなるよ。いつか衰えていって消えるだろう。あれこれ論じる必要もない。ぼくの言っていることは正しいし、いつか正しいことが証明されるはずだ。今のぼくらはキリストより人気がある。ロックン・ロールとキリスト教と、どっちが先にすたれるかはわからないけれど。キリストそのものには問題はなかった。でも彼の弟子たちが頭の悪い凡人だった。ぼくに言わせれば、彼らがキリスト教をねじ曲げて堕落させたのだ」。
これに対し2008年11月、バチカンの日刊紙「オッセルバトーレ・ロマーノ」は「長い年月を経た今では、エルビス・プレスリーなどのロックン・ロールの影響を受けて育った英国の労働者階級の若者が予想外の成功になんとか対応しようとし、自慢して得意がっていただけのように聞こえる」と論評し、ビートルズについては「才能あふれるレノンさんらは現代のポップ・ミュージックにおいて新境地を開いた」と称賛した。
2010年には再び、同紙はふたつの記事と、一面に掲載した「アビーロード」の横断歩道を再現するマンガで、ビートルズに敬意を表した。
バチカンの赦しと称賛に対して、リンゴ・スターは冷ややかだった。「バチカンがぼくらを悪魔的だって言ったのでなかったっけ。それでぼくらを赦すって? ぼくは思うよ、バチカンはビートルズのほかに話すべきことがたくさんあるのではないかってさ」。
私たち日本に暮らすものには「赦す」とは上から目線のようにも思える。だが、キリスト教的にいえば、神が赦すのだから「上から目線」なのは当然なのだろう。
キリスト教では、人間は生まれながらに罪を背負っている、つまり原罪を抱えているという。なぜならば、もともと人間には罪がなかったが、エデンの園でアダムとイブが食べてはいけないといわれていた善悪を知る木の実を食べてしまい、人間本来の善性が損なわれ、互いに羞恥心が芽生え、セックスをすることで生まれた人間の子孫だからである。
だが、洗礼を受けてキリストと結ばれれば、原罪から解放されるし、それまでの過去に犯してきた罪もゆるされるといわれる。洗礼後に犯した罪でさえも、悔い改めて神父や牧師に告白することで神に立ち戻れば、ゆるされるとされる。
バチカンは世界のカトリック教徒の総本山だが、キリスト教の流れではプロテスタントも有力なひとつだ。しかしプロテスタントでも宗派によって考え方はさまざまだ。佐藤優氏と中村うさぎ氏の「聖書を語る」(文春文庫)によれば、人間は生まれたときから神様に選ばれた人とそうでない人に分かれているとする他力本願のカルヴァン派と、あくまでも努力で救われると信じるバプテスト派といった具合にである。
ちなみにアダムとイブが食べたとされる智恵の実はリンゴだとされているが、ビートルズ自身のレーベルも青リンゴの「アップル」である。
一方、仏教において目指すのは輪廻からの解脱である。そのためにすべての欲望や執着心を絶つことが必要だとされる。キリスト教の原罪に近いのは仏教でいう「業」、梵語(サンスクリット)でいう「カルマ」の概念か? 業も因果応報の関係性のなかで、前世などでの過去の悪行が現在の苦境に関連しており、現世で善行を積むことによってあの世あるいは未来での救済につながるという考え方である。仏教における罪は無知であるという考え方もある。無知はむさぼりと怒りという罪をつくるからというのである。
1980年、ジョン39歳の時のインタビューでキリスト教などの宗教について次のように語っている。「立派な真実をたずさえてきた人間がやってくると、その真実を見ずに、それをたずさえてきた人間を見てしまうってことがね。メッセージではなく、メッセンジャーの方をあがめたてまつってしまう。こういうわけで、キリスト教やマホメット教や儒教やマルクス主義や毛沢東思想が出てくることになるのだ。みんなそうだよ。どれもこれも人についてで、その人が言ったことについてであったためしがない」。
「世間じゃいつも、ぼくが反キリスト教主義者だとか反宗教主義者だとかいうイメージを持っていた。でも、ぼくはそうじゃない。ぼくは非常に宗教心の強い人間だ。キリスト教徒として育って、いまやっと、キリストが比喩を使って言っていたことの一部を理解出来てきたのだ。人間は教えを垂れる人にひっかかって、メッセージの方を見逃してきた」。
(文・桑原 亘之介)
桑原亘之介
kuwabara.konosuke
1963年 東京都生まれ。ビートルズを初めて聴き、ファンになってから40年近くになる。時が経っても彼らの歌たちの輝きは衰えるどころか、ますます光を放ち、人生の大きな支えであり続けている。誤解を恐れずにいえば、私にとってビートルズとは「宗教」のようなものなのである。それは、幸せなときも、辛く涙したいときでも、いつでも心にあり、人生の道標であり、指針であり、心のよりどころであり、目標であり続けているからだ。
本コラムは、ビートルズそして4人のビートルたちが宗教や神や信仰や真理や愛などについてどうとらえていたのかを考え、そこから何かを学べないかというささやかな試みである。時にはニュースなビートルズ、エッチなビートルズ?もお届けしたい。