マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーは超越瞑想を通してビートルズの面々が精神世界探究に乗り出した時に師であったことで知られる。
1967年にビートルズはマハリシと出会い、翌年にはインドのリシケシュで瞑想修行をすることになる。リシケシュではメンバー全員の創造力が発揮され、滞在中には30曲以上もの作品が生まれたという。『ホワイト・アルバム』の大半の曲がそうだといわれている。
一般社団法人マハリシ総合教育研究所の鈴木志津夫代表理事によれば、ジョン・レノンの「アクロス・ザ・ユニバース」にはマハリシの講義が散りばめられているという。
ジョンは語っていた――「技術うんぬんの問題じゃない。言葉が自然に湧き出てきたのだ。とり憑かれでもして、超自然や霊媒の力が働いたみたいだった」。
この曲が書かれたのはマハリシと出会った後だが、リシケシュでの修行よりも前である。
だが、歌詞にある「ジャイ・グル・デヴァ・オーム」(Jai Guru Deva Om)は「神聖なる師(マハリシのこと)に栄光あれ」という意味で、「TM(超越瞑想)実践者の間では普通に交わされる挨拶のようなもの」(鈴木氏)だという。
ジョンはリシケシュ滞在中に同作品をシングル・リリースしたがったのだという。
同じくジョンの「ディア・プルーデンス」も瞑想に関係する作品だ。リシケシュで一緒に修行していた、女優ミア・ファローの妹プルーデンスが瞑想に熱中するあまり自分の部屋に閉じこもり出てこなくなってしまったのを心配して「さあ、出てきてみんなと一緒に過ごそうよ」とジョンたちが呼びかける内容である。
アメリカ人フルート奏者ポール・ホーンによると「プルーデンスは非常に繊細な女性で、マハリシの助言を無視して深い瞑想に飛びこみ極度の緊張状態に陥った」という(スティーヴ・ターナー著「ビートルズ全曲歌詞集」ヤマハ・ミュージック・メディア刊)。
同書によれば、プルーデンスはその後、アメリカでは最年少で超越瞑想指導者の資格を与えられたという。そして現在もフロリダで超越瞑想の指導を続けている。
一方、ポール・マッカートニーもマハリシの自然に関する講義にインスパイアされて「マザー・ネイチャーズ・サン」という作品を書いた。
またマハリシに対する「幻滅」をうたった「セクシー・セディ」というジョンの作品もある。これはビートルズ、特にジョンをマハリシから引き離したいと躍起になっていたアップル・エレクトロニクスの責任者マジック・アレックスに騙されてのことだった。
当時ジョンの妻で、リシケシュで一緒に瞑想修行をしていたシンシアはのちにこう回想した――「アレックスは仲良くなった瞑想グループの女性と一緒になって、私たちのオープンになった心に疑惑の種を蒔いた。マハリシが特定の女性と無分別な接触をしたとか、彼はとんでもない悪漢だといった話をたくさん聞かされた」。
「すべては何の証拠も正当性もない情報だった」。
アレックスの正体はすぐにばれた。その詐欺師に近い性質が誰の目にも明らかになり、69年にはアップルを追われることになったのだ。
ジョージ・ハリスンはマハリシの「無罪」を信じ、「ノット・ギルティ」という歌をつくった。本来『ホワイト・アルバム』に収録される予定だったのだが、公になるのは78年のアルバム『慈愛の輝き』まで待たなければならなかった。
ジョンは80年に亡くなるまでマハリシに疑惑を持っていたのだろうか。
ジョンがマハリシの教えを信じていたと思われる曲が存在する。『ジョン・レノン・アンソロジー』に収録された「ザ・リシ・ケシュ・ソング」である。
「きみに必要なのは、このつつましい言葉を唱えることさ。ばかげているって思うかもしれないけど、ほんとうのことなのだ。マントラに秘められた神秘、それこそがすべての答え。さあ受け入れてごらん。ただ、それだけでいい」。
マハリシは自然法党(Natural Law Party)という政党をのちに結成し、92年の英国総選挙に出馬。実はその総選挙の一週間前に、ポールは、リバプール地区の国会議員に立候補しないかとロサンゼルスから電話をかけてきたジョージに誘われたのだという(バリー・マイルズ著「メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」ロッキングオン刊)。マハリシが、ポールとジョージとリンゴ・スターに彼の党から立候補してほしいと言っていたのだという。
結局3人とも政治の世界に入ることはなかった。しかし、総選挙と同じ年にジョージは自然法党の活動を支援するためのコンサートをロンドンで開いた。
マハリシは2008年2月、オランダで亡くなった。享年90歳。翌年マハリシの教えを引き続き広めていこうという決意から、ポールとリンゴはニューヨークで開かれたチャリティー・コンサート「チェンジ・ビギンズ・ウィズイン」に参加した。
(文・桑原亘之介)