今もエバーグリーンとして輝き続ける名曲「ブルーシャトウ」。演奏して歌ったのはジャッキー吉川とブルー・コメッツ。ブルコメ自体がビートルズを模して成長したグループであり、メンバーの井上大輔(井上忠夫)さんが書いた「ブルーシャトウ」も、そのビートルズの影響がいろいろとうかがえる楽曲だといわれる。
ジャッキー吉川とブルー・コメッツは1966(昭和41)年のビートルズの日本武道館公演で前座を務め、ベンチャーズの「キャラバン」などを演奏した。
「ビートルズが帰ってから、『ブルーシャトウ』ができました。元々は木の実ナナさんのための曲だったのだけれど、ナナちゃんが、“男っぽい”っていって歌うのをちゅうちょしたので、代わりにブルコメが歌って、大ヒットしたのです」とギターの三原綱木さんは振り返る。
三原さんは続けて「インパクトあるイントロだった。それを作ったのは大ちゃん(井上大輔)だと思っている。作詞家の橋本淳先生と大ちゃんの2人で品川のホテルに泊まりこみ、『ブルーシャトウ』の曲を考えたのです。たまたまテレビをつけたら、『月の砂漠』が流れてきて、それがヒントとなって『ブルーシャトウ』が仕上がったのです」という。
キーボード担当の小田啓義(おだ・ひろよし)さんも「『ブルーシャトウ』はリズム的にビートルズの影響があるかもしれません」と語った。
ビートルズの日本公演の前座のオープニングは「ウェルカム・ビートルズ」だった。「内田裕也さんが大ちゃんに『何か書いてよ、ビートルズと共演するんだから、ありがとうとかって』と言ったことで大ちゃんが書いた曲だ」と三原さんは述べた。
三原さんはいう。「ビートルズの前座に出演することになって『びびった』。共演となるとけっこうプレッシャーもあった。実際のところ、自分たちはビートルズを見ていない。警備がとても厳しかった。武道館のトイレの天井近くにあったスピーカーで聞いていた」。
「ビートルズ・サウンドの演奏にはぞくぞくした。ジョージ・ハリスンはそんなにギター演奏はうまくないけれど、個性があると思う。4人集まって、あのサウンドを作り出したのには感動です。誰も真似できない。曲もいいし、詞もいい」と三原さん。
そして、「特にうれしかったのは、ビートルズが帰った後に、『ブルー・コメッツのギターは素晴らしい』とジョージ・ハリスンがコメントしたと雑誌記事にあったことです。自分のギタープレーをほめてくれた」と三原さんはうれしそうに話した。
三原さんにいわせると、ブルー・コメッツは井上さんが作ったバンドなのだという。協同企画の永島達司さんが大きな役割を果たしたという証言もある。どちらにせよ1957年のことだった。三原さんがブルコメに加入した当時、演奏のみのバンドで、渡辺プロダクションが提携する大橋プロダクションに所属しており、関係する中尾ミエさん、伊東ゆかりさん、ザ・ピーナッツなどの伴奏をしていた。
フジテレビの「ザ・ヒットパレード」という番組のディレクターだった、すぎやまこういちさんに「ブルコメも何かオリジナルを作らないといけないね」と言われて、できたのがデビュー曲の「青い瞳」だったという。ブルコメはコロンビア・レコードの洋楽部門の所属だったので、「日本語で歌うな」、「演奏だけにしろ」などといわれて、「青い瞳(Blue Eyes)」もまずは英語バージョンで出した、と三原さんは語る。
小田さんが思い出しつつ語ったところによると、「英語版『青い瞳』はヒットした。ブルコメは外国人のバンドだというイメージがあったようで、初めて四国でコンサートをやった時には、客が『何だ、日本人か』と言って、ざわめきが起こりました」。
ヒットを飛ばしたので、コロンビア・レコードも「どうぞ日本語でも歌ってください」となって、「青い瞳」の日本語版もリリースした。それは50万枚の売り上げを記録した。ブルコメがビートルズの前座を務める少し前、1966年の春頃の話だ。
その前年1965年、ブルコメはザ・ピーナッツとともに「紅組」からNHK紅白歌合戦に出ていた。しかし、ジャッキー吉川さんは「伴奏で出るってのは、あくまでも裏方だよな」と言っていたという。そこでデューク・エイセスの和田昭治さんに指導を受けることになる。
小田さんは歌わなかったので見学していたが、「和田さんは厳しかった。トップの大ちゃんが、高橋健二さんと三原さんとに合わせる。口の開け方、ブレスのタイミングを合わせるようにくどいくらい言われていた。暇さえあればコーラスの練習をしていました。他のグループも驚くくらい、我々の歌は上達して、認められていったのです」。
小田さんは「ビートルズのコーラスにはとても影響されました。我々もビートルズをお手本にするようにと、大ちゃんに『ビートルズを聴け』ってよく言っていたものです。大ちゃんは賛美歌みたいなハーモニーを書くので、きれいだけれど、面白みがなかった」という。
1966年暮れには「堂々」と「白組」から紅白歌合戦に出場し、「青い瞳」を歌った。小田さんにいわせれば「奇跡」だった。150万枚の大ヒットとなった「ブルーシャトウ」をひっさげて、1967年には再び紅白歌合戦に出演する。もちろん「白組」からだった。
小田さんによると、日本にビートルズを呼んだ協同企画の永島さんがビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインにブルコメのことをPRしてくれたことで、ビートルズの1964年の全米制覇のきっかけともなった人気テレビ番組「エド・サリバン・ショー」に、ブルコメが1968年に出演することにつながっていったのだという。
「エド・サリバン・ショー」では「ブルーシャトウ」をやってくれとお願いされ、そのうえ「日本的なアレンジにしてくれ」と言われたのです、と小田さん。小田さんが琴を弾くことになり、当時よく出演していた「ミュージックフェア」の司会を長門裕之さんと一緒にしていた南田洋子さんに相談した。南田さんは素晴らしい琴を貸してくれたという。
小田さんが考えた琴のイントロで「ブルーシャトウ」がスタート、英語で歌い始めたが、「アメリカ人には我々の英語はわからなかったみたいでした」と小田さんは語る。
70年代に入るとグループ・サウンズの時代は終焉(しゅうえん)を迎える。三原さんは「つなき&みどり」でのデビューが決まった。小田さんとジャッキーだけが残った。小田さんはジャッキーを支えたいと思っていた。
ブルコメはビクターに心機一転、移籍した。移籍第一弾には小田さんが書いた「哀しい少女」が選ばれて、広島の「スクールメイツ」の女の子が二人参加して、ヒットした。
だが、女の子を入れたブルコメは長くは続かなかった。いつの間にか、赤坂のクラブとかの「ハコバン(ライブハウス=箱=専属)」的な仕事しかなくなってしまって、小田さんも1984年にブルコメを脱退した。それから、小田さんは銀座のクラブでピアノを弾くようになり、その後、NHKの「あなたのメロディー」という番組の編曲を担当した。
そうこうするうちに、「ダン池田とニューブリード」のダン池田さんがアル中になり、小田さんが後釜となった。しかし、性に合わなかった。まず演歌が嫌いなうえに、神経がすり減ってしまうような仕事だった。一年で、三原さんにバトンタッチした。三原さんはニューブリードの指揮棒を、それからおよそ30年間、振り続けることになる。
小田さんは演奏のみならず作編曲にも定評があり、岩崎宏美さんが歌った「すみれ色の涙」は小田さんの作品だ。「レコード大賞に作曲家として呼ばれました。ブルコメではB面の曲だったけれど、宏美さんのお姉さんがブルコメのファンで、勧めてくれたといいます」
ブルコメの生き残りの二人。小田さんは、コロナの影響でしばらく休止中だが、ピアノソロライブなどを開いている。三原さんもライブ活動を継続して行っている。
ビートルズ日本武道館公演の前座には、ほかに望月浩さんと桜井五郎さんが出演していた。望月さんは、いわゆる「エレキ歌謡」の代名詞ともいえる「君にしびれて」を歌った。他のアーティストたちが英語でカバー曲を歌ったり、インスト曲を演奏したのに対し、望月さんは日本語のオリジナル曲を披露したことで、「異彩」を放っていたという。
尾藤イサオさんによると、「望月さんは、渡辺プロダクションのタレント養成組織である『スクールメイツ』から生まれたスターで、同じくスクールメイツ出身だった布施明さんや森進一さんよりも、当時は人気があったくらいです」という。
桜井さんは単独での歌唱や演奏といったパフォーマンスはなかったが、他のアーティストたちのバックでギターを弾いていたという。
文・桑原亘之介