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【スピリチュアル・ビートルズ】1966年ビートルズ日本武道館公演の前座(中)――ザ・ドリフターズとブルージーンズ

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 ザ・ドリフターズ。テレビで大人気だったお笑いグループとして多くの方に知られている。が、実はメンバーみんなが音楽的なバックグラウンドを持ち、もともとはバンドで、1966(昭和41)年のビートルズ日本武道館公演の前座を務めたこともある。

 当時は「いかりや長介とザ・ドリフターズ」。その音楽的な「司令塔」ともいえたのが、譜面の読み書きもできた、当時24才の仲本工事さんだった。

 ビートルズの日本公演は6月30日から7月2日まで、3日間で5回の公演があった。スケジュールの都合から、ドリフが出たのは最初の2日間だけで、最終日は出なかった。

ビートルズ来日公演のパンフレット
ビートルズ来日公演のパンフレット

 尾藤イサオさんと内田裕也さんらが「ウェルカム・ビートルズ」を歌った後の2番手としてドリフが登場。いかりやさんのカウントとともに、仲本さんがセンターに出てきて、ロックンロールのスタンダード「のっぽのサリー」を英語で歌った。

 仲本さんがギター、いかりやさんがベース、高木ブーさんがギター、加藤茶さんがドラム、いつもはキーボードの荒井注さんはギターを抱えていた。

 間奏では、荒井さんと高木さんがステージを走り回った。曲が終わると、加藤さんがマイクのところに進み出て「バカみたい」と一言。そして、いかりやさんの「退散」の掛け声とともに全員が足早にステージを去っていった。

 仲本さんは「ビートルズの曲を譜面に起こしたことがあり、そのコード進行が斬新で衝撃を受けたという」(笹山敬輔著『ドリフターズとその時代』文春新書)。

『ドリフターズとその時代』(笹山敬輔、文春新書)
『ドリフターズとその時代』(笹山敬輔、文春新書)

 「仲本さんはドリフに入る前、ジェリー藤尾さんの『パップ・コーンズ』のセカンド・ボーカルでした。仲本さんは、ジャズ喫茶で歌手として活躍していた。新生ドリフには歌手兼ギタリストとして入ったのだと思います」。そう語るのはドリフ研究の第一人者でお笑い評論で知られる西条昇(さいじょう・のぼる)江戸川大学教授だ。

 「誰かが歌っている時に、後ろで揉めたりするギャグがあるので、誰かちゃんと歌う人がいないともたないということだったのでしょう」。

 いかりやさんは、前座でのパフォーマンスの話を断るつもりだった。「あんな柔道や剣道をやる、幕もないだだっぴろいところで『笑い』をやらされるなんて、まるで有り難味(ありがたみ)のない話だった。本当のところ、新しいネタ作りに追われていた私には、迷惑な仕事でしかなかった」(『いかりや長介自伝 だめだこりゃ』新潮社)。

『いかりや長介自伝 だめだこりゃ』(新潮社)
『いかりや長介自伝 だめだこりゃ』(新潮社)

 ところが無理やりやらされるハメになったという。相手は天下のビートルズなので、ドリフは「奇策」を取ることにした。いかりやさんはいう。「さっと出て、一発かまして、なるべく早く引き上げるに限る・・・ネタだけやろうと決めた。しゃべりのネタは駄目だろう・・・削りに削ってネタの部分だけをやることにしよう」。

 実際にドリフの舞台はわずか1分だった。高木さんは回想する。「ビートルズの4人とは楽屋から何から完璧に遮断されていて、話をするどころか姿も見せてもらえなかった。トイレ行くにも、大勢の護衛が取り囲んでいたらしい。そんな状況だったけど、実は見たんだよね。出番が終わったあとで、メインステージの下の誰もいないところから、こっそり彼らの演奏をのぞいてた」(2020年9月22日付「ポストセブン」ウェブ版)。

 高木さんは自らの演奏については、「正直、いまいちなステージだったなと思っちゃった。時間を短くしろって言われてたからか、演奏のテンポが速すぎる・・・あの頃は、会場のセッティングにせよテレビ中継にせよ、何もかも手探りだった」と語っていた。

 今現在、私たちが知っているドリフのメンバーの名前は、1966年春にクレージーキャッツのハナ肇さんがつけたものだった。「渡辺プロダクションの渡辺晋さんのお宅で開かれた宴席で、『長介』、『茶』、『ブー』、『注』が決まったのです」と西条教授。その直後のビートルズ日本公演にはその新たな芸名をもって臨んだのである。

 ドリフが前座として登場しなかった最終日の公演を観たのが、当時16才だった志村けんさんだ。志村さんは「中学生のときにビートルズと出会う。初めて買ったレコードが『ラヴ・ミー・ドゥ』で、曲だけでなく反骨精神にも惹(ひ)かれた」(笹山著「ドリフとその時代」)。

 志村さんは見に行きたかったが、なかなかチケットが手に入らなかったところ、同級生の女の子がチケットを持っていると聞いて、直談判した。「『俺が見たほうが絶対にいいから』と強引にお願いして、譲ってもらった」という。

 ドリフの笑いは、進駐軍へのパフォーマンスから始まった。そのため、言葉が通じなくてもよいように、音楽をともなったフィジカルな笑いが原点となったのである。ドリフにとって「音楽と笑い」は切り離すことができなかった。

 ジャズ喫茶などでの活動から、渡辺プロダクションがテレビ番組を多く持っていたことから、テレビでの露出も増えていった。「ホイホイ・ミュージック・スクール」という日本テレビのオーディション番組で素人の歌の伴奏を担当した。

 その番組内でドリフが、ジャズ喫茶で経験してきた音楽ギャグを披露したことで、ドリフの人気が上向いていったのである。

 当時はまだ無名に近いドリフがビートルズ公演の前座に抜てきされたのは「ビートルズを呼んだ協同企画の永島達司さんと渡辺晋さんのつながりがあったからではないか。渡辺さんは日本側の出演者について仕切っていたといわれています。ドリフの番組があった日本テレビによる中継もありました」と西条教授は説明してくれた。

 ドリフがレコード・デビューしたのは1968年。「ズッコケちゃん」と「いい湯だな」の両A面扱いのカップリングで、後者が大ヒットする。のちにお化け番組と称されるようにもなる「8時だョ!全員集合」がスタートしたのは1969年10月のことだった。

「ズッコケちゃん」と「いい湯だな」の両A面シングル
「ズッコケちゃん」と「いい湯だな」の両A面シングル

 志村さんがいかりやさんの弟子になったのが、ビートルズ日本公演から2年も経っていない1968年2月のことで、ドリフに正式加入したのは1974年だった。

 荒井さんに代わってドリフ入りした志村さんは楽器が苦手だったため、ドリフはそこで「コミックバンドとしての歴史的使命」を終えたといわれる。

 「8時だョ!全員集合」が最終回を迎えたのは1985年9月だった。そして、今や、荒井さん、いかりやさん、志村さん、仲本さんはこの世を去っている。

 そのドリフと親交があったギタリストの岡本和夫さんが所属していたのがブルージーンズで、ビートルズ武道館公演で前座を務めた。「ビートルズの前座に内田裕也さんが出るから、バックバンドとしてブルージーンズも出ることになった。そして尾藤イサオさんのバックとしてブルー・コメッツも出ることになったのです」と岡本さんは話す。

 「ビートルズの前座話はまったくの他人事だった。その時、加瀬邦彦さんと寺内タケシさんがいなかった。私は、ジャズ喫茶でやっていた曲を、裕也さんの顔色をうかがいながら、洗い直した。『ウェルカム・ビートルズ』は武道館で何十回もリハーサルをやったから覚えてしまった。前日だったかな、何せ武道館を音楽コンサートで使うのは初めてなので、音響のチェック。ポール、ジョージなどと叫ぶときにスポットを当てるために照明のチェック」。

 岡本さんは、「当日はマイク・テストもあった。いつビートルズが来るとか誰も何も教えてくれなかった。『楽屋を出ないように』って言われていた」という。

 「『ロックン・ロール・ミュージック』のイントロがうすらぼんやりと聞こえてきて、『ああ、やっているんだな』という感じだった。音はもやもやしやしてよく分からないが、ビートルズは見えた。楽しそうに笑っている。客席ではどう聞こえるのだろうかと思った。女の子の歓声はかき消されてしまっていた。モニターの音の返しもあった。太鼓は全く聞こえなかった。でも、見られただけで胸がいっぱいだった」と岡本さん。

 岡本さんはビートルズ・ファンだった。特にハーモニーがおもしろかったという。岡本さんはインストゥルメンタル・バンドにいながら、インストは好きでなかったという。「歌とかロックが好きだった」。ビートルズ公演の前座で、ブルージーンズは内田さんが歌う「朝日のない街」のバックを務めた。ハンチング帽をかぶった岡本さんはギターを演奏した。

元ブルージーンズの岡本和夫さん(左)
元ブルージーンズの岡本和夫さん(左)

 ブルージーンズは1962年に結成されたロカビリー・バンド。わずかな期間を除いて、「ギターの神様」と称された寺内タケシさんがバンド・マスターを務めてきた。その寺内さんは2021年6月に亡くなった。岡本さんは、リバプール・サウンドにインスピレーションを受けて加瀬さんが作ったボーカル曲「ユア・ベイビー」や、ブルージーンズの代表的エレキ・インスト・ナンバー「津軽じょんがら節」などをプレイし続けている。

文・桑原亘之介