昭和の今太閤・田中角栄首相(1918~1993年)は日中国交回復を果たした翌年の1973年9月に北ベトナムとも国交を樹立し、アジアの社会主義国への扉を、立て続けに開いた。当時のベトナムは南北に分かれており、南ベトナムにはベトナム戦争で進軍した米軍が半年前まで駐留していた。
それから50年。ベトナムは、成長著しい東アジア諸国連合の中でも高い経済成長率を誇る国の一つとして国際的地位を向上させている。日本国内では働くベトナム人が増え、日本で働く外国人労働者の中で最多の46万2千人余りを数える(2022年10月時点)。若いベトナム人は少子高齢化で労働人口が先細る日本の労働現場を支える不可欠の存在になりつつある。
このような深化を重ねる日越関係の一層の関係強化を目指す外務省は、国交樹立50周年の節目を迎えた今年、民間らの各種日越交流事業を「50周年事業」に認定し、日越親善を後押しする。
その外務省認定50周年事業の一つ、ベトナム人読者対象の「学習まんが広岡浅子感想文コンクール」(大同生命保険主催)の授賞式が11月10日、東京都内で開かれた。大同生命創業者の一人で日本初の女子高等教育機関である日本女子大設立にも尽力した女性実業家の先駆け、広岡浅子(1849~1919年)の伝記漫画(小学館、ベトナム語版)の読後感を浅子への共感とともにつづった12作品が表彰された。
応募作品655点の中で最も高い評価を受けた「最優秀賞」を受賞したのは事業創造大学院大学(新潟市)で学ぶダン・ジェウ・ヒエンさん。ベトナム中部の古都フエ市出身の28歳。ベトナムの大学を卒業後、日本のシューズメーカー、アシックスのベトナム工場で4年間働き、22年10月に留学のため来日。日本での就職を目指し「将来は日越の“懸け橋”となるような仕事がしたい」と話す。
今回のコンクールに応募するまで浅子の存在は知らなかったが、伝記漫画を読んで、13歳で読書を禁じられるなど若い女性に時代が課したジェンダー(性別役割)を乗り越えて炭鉱開発などに取り組むなど女性の社会進出への道を切り開いた浅子の粘り強さや、日本女子大創立に協力して“学問する女性”を後押しした社会貢献の志の高さに、同じ女性として刺激を受け「自分も浅子のように、若いベトナム人女性から目標とされるような存在になりたいと思った」という。
感想文は、このような浅子の人生に対するヒエンさんの感銘を「人からの借りものでない自分自身の言葉で凝縮した形で表現した」(審査員のベトナム文学翻訳家・加藤栄さん)点が評価された、という。
ヒエンさんは「私が生まれ育ったまちは田舎です。女性は大学に進学せず若いうちに結婚することが普通です。そのような中で、私のやりたいことを応援してくれる両親にはとても感謝しています。今回の受賞もとても喜んでくれました。受賞は今後の人生の励みになります。浅子さんを見習って、両親から受けたこの恩を、両親はもちろん、ベトナム社会に返していけるよう一生懸命努力したい」と流ちょうな日本語で語った。
日越交流の扉を開いた田中角栄氏の地元、新潟県で学ぶヒエンさんが、今回最優秀賞を受賞したのも何かの縁かもしれない。角栄氏のまいた種が新潟で花開き、日越の懸け橋として実を結ぼうとしている。地道な親善外交の大切さを示す一例だ。
最優秀賞のほかは、優秀賞5点、入選4点、特別賞2点が表彰された。優秀賞はグエン・ゴック・サンさん、グエン・ティ・トゥ・チャンさん、ファン・クイン・ウインさん、ブイ・カイン・リンさん、グエン・ド・アン・ニェンさんの5人、入選はトリン・ティ・ミン・トゥーさん、ホアン・ティ・クイン・アインさん、ラオ・ティエン・キムさん、ブイ・ヴァン・ジャンさんの4人、特別賞はホアン・マイ・チャンさん、ヴォー・ティ・ミー・リンさんの2人が受賞した。
12人の全受賞者のうち男性は優秀賞のグエン・ゴック・サンさん一人だけだった。コンクールの応募者男女比は女性6割、男性4割だったが「最終選考段階では、男性作品はサンさんのものだけになった」(審査員のベトナム文学翻訳家・加藤栄さん)。
審査員を代表して講評を述べた加藤栄さんは「女性の地位向上と公益のために奮闘した浅子を自分の人生の手本にしたいという女性の感想文が多かった。浅子が直面した“女に教育などいらない、結婚して子どもを産めばよい”といった日本の昔の社会的風潮は、ベトナムの地方、農村に住む女性にとっては他人ごととは思えない“今日的問題”であると思う。女性の作品に熱のこもった力作が多くなったのは当然といえば当然だったかもしれない」と指摘した。
サンさんは受賞あいさつで「夫の浅子に対する応援は私の心まで温かくする」と浅子の良き理解者であった夫・広岡信五郎(1841~1904年)の立派な態度をたたえた。サンさんに賞状を手渡した加藤栄さんは「女性が社会で活躍するためには男性の理解と協力が不可欠です。サンさんのように女性に理解のある男性がこれからますます増えてくれることを期待します」とサンさんにエールを送った。
優秀賞を受賞したホーチミン市出身のグエン・ド・アン・ニェンさんは現在、日本の母校、名桜大学(沖縄県名護市)などでベトナム語を教えている。『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』などの宮沢賢治作品のほか、樋口一葉の『たけくらべ』、夏目漱石の『夢十夜』など日本人作家の作品約20冊をベトナム語に翻訳するなど日本文学に造詣が深い。賢治などの翻訳作品はいずれもベトナムで出版されている。また日越国交樹立40周年記念・枯葉剤被害者支援企画『ベトナム独立・自由・鎮魂詩集』(ベトナム語)の日本語への翻訳(共訳)も手掛けている。
ニェンさんが研究、翻訳した宮沢賢治(1896~1933年)の作品に影響を与えたといわれている、賢治の妹・宮沢トシ(1898~1922年)は、浅子が女子教育の確立を求めて創立に尽力した日本女子大(当時日本女子大学校)で学んでいる。トシは、浅子に資金提供を依頼した日本女子大創立者で初代校長の成瀬仁蔵(1858~1919年)の講義「実践倫理」を熱心に聴講し、成瀬仁蔵が唱える自立的な人格形成を目指す「宇宙自我」を導き手に、深い精神探求を始めたという。その真剣な精神探求は賢治の考え方にも影響を与えた、と賢治の研究者らは指摘する。
賢治作品翻訳者のニェンさんの優秀賞受賞は、トシや仁蔵、日本女子大を介して浅子と少なからぬ縁を結んでいる。
特別賞を受賞したホアン・マイ・チャンさん、ヴォー・ティ・ミー・リンさんの2人は共に技能実習生。チャンさんは群馬県、リンさんは名古屋市で仕事を学んでいる。2人は受賞あいさつで「とてもいい勉強になりました。これからも頑張ります」とはにかみながら述べ、受賞を喜んでいた。
コンクール主催者として冒頭あいさつした大同生命保険の北原睦朗社長は「わが社の生命保険契約者の多くは中小企業の経営者です。その中小企業では多くのベトナム人の若者が一生懸命働いてくれている。少子高齢化で人手不足が深刻な日本の中小企業を支えてくれているのはベトナム人のみなさんです。中小企業を支え共に歩む大同生命としては、ベトナムの方々に日本の歴史、文化などに関心を持ってもらいたく、若者が多くこれからさらに発展するだろうベトナムの方々に興味をもってもらえそうな広岡浅子の伝記漫画を課題図書にした感想文コンクールを企画した」と話し、コンクール実施の意義や日本の中小企業を支えてくれる“仲間”であるベトナム人への感謝を述べた。