「特集」USスチール買収 「投資」曖昧なまま頓挫状態 禁止は選挙向け密約か 米経済・雇用にマイナスも

木内 登英
野村総研
エグゼクティブ・エコノミスト

日米政治の犠牲に

 日本製鉄は米鉄鋼大手USスチールの完全買収を引き続き目指しているが、実際には、その計画は頓挫、あるいは大幅修正を余儀なくされつつある状況だ。

 バイデン前米政権の下では「国家の安全保障上のリスク」との理由で買収計画の撤回命令が出され、またトランプ大統領は、明確な根拠を示さないまま、「海外企業がUSスチールの過半数の株式を取得し経営権を握ることは認めない」としている。

 バイデン前政権が買収阻止に動いた背景には、2024年の大統領選挙で労働組合の支持を得る狙いがあったと考えられる。他方、日本製鉄が買収計画を修正し、「単なる買収ではなく投資」を行うとトランプ大統領に説明したのは、日本製鉄自身ではなく、2月7日の日米首脳会談に臨んだ石破茂首相だった。

 日本製鉄は、USスチールの株式を100%買い取って完全子会社化した上で、日本製鉄が持つ高い技術を移転させる米国での新規投資を計画していた。USスチールの経営権を取得できない中で行う投資とはどのようなものか、USスチールにメリットをもたらす投資なのか、それとも日本製鉄自身が米国で生産能力を拡大させる投資なのか、そうした点を曖昧にしたまま、日米両首脳は、日本製鉄不在の中で、その「投資」を歓迎し合った。

 日本政府は、トランプ大統領から日本の対米輸出自動車などに関税をかけられるなど、強硬な要求を押し付けられることを回避するため、日米首脳会談で、米国からのLNG(液化天然ガス)の輸入拡大、日本からの米国投資1兆ドル(1ドル=150円換算で150兆円)への拡大とともに、このUSスチール買収計画の修正案をトランプ大統領への土産として準備したのであろう。

 このように、日本製鉄の買収計画は日米両国の政治の犠牲となった感がある。純粋に民間企業のビジネスとして考えれば、この買収は日本製鉄、USスチール双方にとって大きなメリットがあり、また日米双方の経済にとってもプラスであるはずだ。

 買収計画の行き詰まりは、民間企業の活動についての政府の関与の在り方、日本企業の米国ビジネス上のリスク、トランプ政権の保護主義政策の問題などについて、実に多くの教訓を残すものとなった。その経緯を、時間をさかのぼって振り返ってみたい。

バイデン氏が買収阻止

 23年12月に日本製鉄は、USスチールを143億ドルで買収することで合意したことを発表した。日本製鉄は、アジア市場が中国製の安価な鋼材に席巻される中、米国市場の開拓に活路を見いだす戦略だったとみられる。

 他方、トランプ政権が発足すれば、日本からの鉄鋼輸出にも関税が課せられる可能性があることから、それを見越して、輸出ではなく現地生産の拡大を通じて米国での市場シェアを拡大することを目指したのだろう。ただし、自力で米国市場を開拓していくのは時間がかかることから、一気に販路を獲得することを狙い、USスチールの買収を決めたと考えられる。

 ところが買収計画は、予想外の障害に直面することになった。バイデン前大統領による反対だ。バイデン氏は24年3月に、「USスチールは1世紀以上にわたって米国を象徴する鉄鋼会社であり、国内で所有・運営される米鉄鋼会社であり続けることが重要」と述べ、買収に否定的な姿勢を示した。

 バイデン前大統領が買収に否定的だったのは、安全保障や経済の観点からではなく、11月の大統領選挙への影響を意識したため、と広く考えられた。雇用削減に繋(つな)がるとして買収に反対する全米鉄鋼労働組合(USW)の本部やUSスチールの本社があるのは、大統領選挙の勝敗の鍵を握った激戦州の一つのペンシルベニア州だ。同州で勝利するためには、労働組合の強い支持が必要だったのである。

 買収計画は、政府の省庁横断組織である「対米外国投資委員会(CFIUS)」が審査したが、意見の集約ができなかったことから、12月にバイデン前大統領に判断を一任した。

 バイデン前大統領の判断が後ずれしていく中、大統領選挙が終われば、バイデン氏も買収に賛成するのではとの期待も相応にあった。しかし実際には、年明けの今年1月3日に、バイデン氏は、買収計画に中止命令を出した。バイデン前大統領は「米国の鉄鋼会社を外国の支配下に置くことは国家安保と供給網にリスクとなる」と説明した。

現役大統領を提訴

 大統領選挙が終わったにもかかわらず、バイデン氏が買収阻止の姿勢を変えなかった理由の一つは、大統領選挙中にUSWなどに対して買収阻止を密約していたためではないか、と考えられる。

 USWのマッコール会長は、買収に伴う労働者の解雇を避けるため、バイデン前大統領に買収中止を働きかけた。また、USスチールと競合する大手鉄鋼会社クリーブランド・クリフスのゴンカルベスCEO(最高経営責任者)は、USスチールが日本製鉄に買収されれば、自社の競争力に悪影響が及ぶと考え、その阻止に動いたのだろう。日本製鉄は、この両氏が結託して、バイデン氏に買収阻止をひそかに促したと考えているようだ。

 バイデン前大統領が買収阻止命令を出した1月3日に、日本製鉄は現役大統領であるバイデン氏らを提訴するという異例の事態に発展した。日本製鉄の橋本英二会長は翌日に記者会見を行い、「バイデン大統領の違法な政治的介入により、CFIUSの審査手続きも適正に実施されないまま、今回の大統領令に至った。到底受け入れることはできない」と提訴の理由を説明した。

 日本製鉄は、不当な政治介入を理由に大統領らを提訴したが、その主張を米国の裁判所が認める可能性は低いだろう。しかし、外国企業による米国企業の買収が政治的な理由で阻止されたとみられる背景を、裁判を通じて明らかにすれば、米国政府がそうしたことを今後、安易に繰り返すことを牽制(けんせい)できるだろう。この点から、勝訴は難しくても、提訴すること自体には大きな意義があるのではないか。

米国の強い反発

 バイデン前大統領が買収阻止に動き、また、トランプ大統領も買収に強く反対する背景には、かつて米国を代表した老舗企業が外国企業、とりわけ西欧圏ではない日本企業に買われることに対する、強い心理的な抵抗があったとの指摘もされている。

 その一端は、クリーブランド・クリフス社のゴンカルベスCEOの以下のような暴言にも表れているのではないか。同氏は1月13日の記者会見で、「中国は悪い。中国は邪悪だ。中国は恐ろしい」としつつ、「しかし日本はもっと悪い。日本は中国に対してダンピング(不当廉売)や過剰生産の手法を教えた」と述べた。さらに、第2次世界大戦を引き合いにして、「世界が平和になるには、(日本は)われわれの血を吸うのをやめないといけない。1945年以来、われわれの実力を学んでいない。日本は自分が何者であるか理解していないことを自覚すべきだ」と激しい日本批判を展開したのである。

 こうした暴言には何ら真実はないが、かつて米国を代表する企業であったUSスチールが日本企業に買われることへの米国民の反発を一部反映している側面もあるかもしれない。

 それは、80年代に三菱地所がロックフェラーセンタービルを買収した際の米国の反応と共通しているようにも見える。しかし現在では、日本はもはや当時のように米国経済を脅かす存在ではない点が大きく異なる。

 USスチールに日本製鉄が資本と技術を提供して、日米が世界の鉄鋼市場で優位を誇る中国に共同で対抗することは、米国経済にとっては本来好ましいことのはずだ。

 他方、同盟国である日本の企業による米企業の買収が、米国からの情報や技術の流出を通じて、国家安全保障への大きな脅威になるとも考えにくい。米国が同盟国からの投資を阻むこのような事例を作れば、それは広く海外からの対米投資を萎縮させ、米国経済や雇用にマイナスの影響を与えることにもなってしまうだろう。

日本企業の対米不信増大

 1月20日に就任してからわずか1カ月足らずのうちに、トランプ大統領は、メキシコ、カナダ、中国に対する「一律関税」、鉄鋼、アルミニウムへの25%の関税、米国の輸出品に高い関税率をかける相手国の製品に同率の関税率を課す「相互関税」の計画、自動車関税の計画などを次々に打ち出していった。追加関税によって米国の製造業を守る、極めて保護主義色の強い通商政策だ。日本製鉄によるUSスチール買収計画の阻止も、こうした、米国企業を守るための保護主義政策の一環と位置付けられるだろう。

 米政府は、このような保護主義的な政策を過去から一貫して続けてきた。日本からの輸入鉄鋼に押されると、USスチールなどは時の政権を動かし、輸入規制措置を発動させてきた。そのような政策で米国企業を海外企業との競争から守ってきたことが、USスチールの国際競争力を低下させ、現在の衰退した姿に繋がっているのではないか。

 バイデン前大統領による日本製鉄のUSスチール買収計画の阻止とトランプ大統領による追加関税はいずれも、日本企業にとって、米政府への信頼感を大きく低下させ、米国ビジネス上のリスクを強く意識させるものとなった。

 高い関税を課せられても、巨大な米国市場を捨てることができない日本の自動車メーカーなどは、今後、米国での現地生産拡大を余儀なくされるだろう。それはまさにトランプ大統領の思惑通りである。

 しかし、他の業種は、米国企業の買収にとどまらず、米国への輸出、米国での現地活動も含めて、米国ビジネスを萎縮させてしまうのではないか。それは、米国経済、企業にとってもマイナスであることを米国は強く認識すべきだ。

 USスチール買収計画阻止も含め、米国の保護主義的な政策姿勢は、自国の伝統的製造業、いわゆる「オールドエコノミー」の衰退を一層加速させることになるだろう。

野村総合研究所 木内 登英​(きうち・たかひで) 1963年千葉県生まれ。87年野村総合研究所入社。90年に野村総研ドイツ、96年に野村総研アメリカ。2004年に野村證券に転籍し07年に経済調査部長兼チーフエコノミスト。12年に内閣の任命により日本銀行政策委員会審議委員に就任し、17年7月から野村総研エグゼクティブ・エコノミスト。最新著書は「日本経済の今を理解する7つのキーワード」(25年1月、金融財政事情研究会)

(Kyodo Weekly 2025年3月10日号より転載)