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【スピリチュアル・ビートルズ】 ハンブルク時代からの友人クラウス・フォアマンが見たビートルズ

『birth of an icon REVOLVER 50』に掲載されたクラウス・フォアマンの写真。
『birth of an icon REVOLVER 50』に掲載されたクラウス・フォアマンの写真。

 1971年のバングラデシュ難民救済コンサートの中盤、ジョージ・ハリスンはその人物を次のように紹介した。「多くの人は名前を聞いたことがあると思うけど、実際には見たことがない」男。その男こそ、ハンブルク時代からのビートルズの友人で、アルバム『リボルバー』のジャケットを手掛け、解散後も交流を続ける、クラウス・フォアマンである。

『birth of an icon REVOLVER 50』には、ジョンが『リボルバー』のジャケットをフォアマンに依頼した場面がコミックで描かれている。
『birth of an icon REVOLVER 50』には、ジョンが『リボルバー』のジャケットをフォアマンに依頼した場面がコミックで描かれている。

 イラストレーターとしても知られるクラウスだが、彼がベースを始めるきっかけはビートルズにあった。恋人と口論になり家を飛び出したクラウスは、ハンブルクの赤線地帯レーパーバーンのクラブ「カイザーケラー」から聞こえてくるロックンロールに誘われるようにして店に入る。そこで知り合ったのがビートルズの面々であった。1960年のことだ。

 当時のビートルズのメンバーは、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ、スチュアート・サトクリフ、ピート・ベストだった。その夜を境にカイザーケラーに通うようになったクラウスと友人たち。クラウスが最初に話しかけたのはジョンだった。

 クラウスがデザインしたベンチャーズのレコード「ウォーク・ドント・ラン」のジャケットをジョンに見せると、彼は言った「スチュアートに見せな。バンドの芸術家だからな」。芸術家同士気が合ったのだろう、すぐに打ち解けたクラウスとスチュ。

 当時スチュがベースを弾いていた。トップテン・クラブに移ったビートルズを引き続き見に行っていたクラウスたち。ある晩、スチュが彼のベースをクラウスに手渡してきた。彼はベースを手にするのは初めてだった。だがスチュは言った「さあ君がプレイするんだ」(2011年6月22日付米音楽雑誌『ギター・ワールド』電子版)。

 ギターを弾いたことはあったクラウスだが突然のことにおじけづき、ステージには上がらず、ステージの正面の椅子に座ってベースを弾き始めた。クラウスが生まれて初めてベースをプレイした曲は、ファッツ・ドミノの「アイム・イン・ラブ・アゲイン」だった。

 ジョンはクラウスと出会った際、彼自身が手掛けたレコード・ジャケットを持参していたことを覚えていたのだろうか。66年、ビートルズが7枚目のオリジナル・アルバム『リボルバー』を制作していたある日、クラウスのもとにジョンから電話がかかってきた。ロンドン北部のハムステッドのアパートで、風呂に入っているところだった。

 電話に出るなりジョンは言った「俺だ、ジョンだ。ぼくらの次のアルバムのカバーに何かいいアイデアはないか?」。「さあ服を着て、スタジオまで来いよ。そしてぼくたちがこれまでにテープに録音したものを聞いてくれ」。とまどうクラウスに、ジョンは有無を言わせなかった(洋書『birth of an icon REVOLVER 50』Delius Klasing)。

洋書『birth of an icon REVOLVER 50』( Delius Klasing 著)の表紙。
洋書『birth of an icon REVOLVER 50』( Delius Klasing 著)の表紙。

 「トゥモロー・ネバー・ノウズ」などの曲に圧倒されたクラウス。彼はアルバム・ジャケットの制作に取り掛かり、いくつかのスケッチを描いた。そしてビートルズの4人に見せた。その中に髪の毛が強調され、小さな人物が描かれたスケッチがあり、皆それが気に入った。それを基にクラウスはアルバム・ジャケットを完成させることになる。

 クラウスの線画と写真のコラージュからなる『リボルバー』の斬新なジャケットは、ビートルズがもはや単なるポップアイドルではなく、アーティストとして手掛けた革新的サウンドともマッチしているとして、多方面から絶賛された。そしてクラウスの作品は、67年のグラミー賞(ベストLPジャケット・デザイン)を獲得したのである。

『リボルバー/ザ・ビートルズ』
『リボルバー/ザ・ビートルズ』

 60年代後半、クラウスはマンフレッド・マンのベーシストとしても活動した。ビートルズの面々、特にジョージ、ジョン、リンゴ・スターとの交流は続いていた。ジョージ、リンゴとは一緒に暮らしたこともある。そしてジョンとの交友も続く。クラウスがジョンの新しい伴侶であるオノ・ヨーコと相性が良かったことも理由の一つだ。

 ジョンとヨーコのプラスティック・オノ・バンドに参加。ジョン、ジョージやリンゴのソロ・レコーディングにも加わった。前述のように、ジョージらが主宰したバングラデシュ難民救済コンサートにも出演。スタジオ・ミュージシャンとしては、ハリー・ニルソン、カーリー・サイモン、ランディ・ニューマン、B.B.キングらとも仕事をしている。

 ジョンは80年12月に凶弾に倒れ、この世を去ったが、クラウスはジョンと最後に会った時のことを鮮明に覚えているという。ジョンとヨーコの住まいであるダコタ・ハウスを訪ねたクラウスが台所に入っていくと、ジョンがパンを焼き、ご飯を炊いているところだったという。ジョンはご飯の炊き方を教えてくれ、ギターをつまびき、ヨーコがすしを出してくれた。

 クラウスは、ジョージの87年のアルバム『クラウド・ナイン』からシングル・カットされた「FAB」のシングル・ジャケットも手掛けた。FABとはファブ・フォーとよばれたビートルズのことで、ジョージはアイドル時代の自分たちを振り返る作品を書いた。クラウスのイラストも『リボルバー』の延長線にあるといってもいい出来栄えだった。

「FAB/ジョージ・ハリスン」
「FAB/ジョージ・ハリスン」

 90年代に入ると、ビートルズが自分たちの歴史を自ら振り返るというアンソロジー・プロジェクトが本格始動する。そのCDジャケット、DVD、本の表紙などに採用されたのは、クラウスの作品だった。そして90年代末、ポールからクラウスは電話を受けた。ポールが制作中のロックンロール集(『ラン・デビル・ラン』)のアルバム・ジャケットを考えてくれないかという依頼だった(クラウス著『ザ・ビートルズ/リメンバー』プロデュース・センター出版局)。

左から『アンソロジー1』、『アンソロジー2』、『アンソロジー3』。
左から『アンソロジー1』、『アンソロジー2』、『アンソロジー3』。
『ザ・ビートルズ/リメンバー』(クラウス・フォアマン著 プロデュース・センター出版局刊)
『ザ・ビートルズ/リメンバー』(クラウス・フォアマン著 プロデュース・センター出版局刊)

 結局、この時はクラウスのアイデアが実ることはなかった。だが、ポールは、2009年にクラウスの70歳の誕生日を機に企画された記念のアルバム『サイドマンズ・ジャーニー』のオープニングで、クラウスがハンブルクで初めてベースを弾いた思い出の曲「アイム・イン・ラブ・アゲイン」を歌って、お祝いとしている。

『サイドマンズ・ジャーニー/VOORMANN&FRIENDS』
『サイドマンズ・ジャーニー/VOORMANN&FRIENDS』

(文・桑原亘之介)