がんと闘病中だったジョージ・ハリスンが余命いくばくも無いと知らされたポール・マッカートニーとリンゴ・スターは、彼が滞在していたニューヨーク・マンハッタンのホテルの部屋を見舞いに訪れた。2001年11月12日のことだった。
ポールがまず訪れた。遅れてリンゴが駆け付けた。ジョージは投薬治療中で、菜食主義者用の食事と水しか口にしていなかったけれども、昼食をともにした。
リンゴが一足先に立ち去る前に、ジョージの家族と他の友人たちは部屋を出て、3人のビートルたちだけの時間を作ってくれたという(米『ピープル』誌)。
ポールの友人によると、「長年にわたって、彼らには意見や立場の相違があった。でもそういった違いはすべてどこかに行ってしまったのだ。というのも、彼らが互いにいかに大切な存在であるかということが分かったからなのだ」。
「ポールはジョージと初めて会った時に、互いのジョークで笑い合ったことを覚えていた――そして、まさにふさわしかったのは彼らの最後の時も同じだったことだ。リンゴもその場にいて、気分は高まり、3人とも話したいことが山ほどあった」。
「彼らの話はやむことがなかった。でもユーモアでその場の雰囲気を作っていたのはジョージだった。彼はみんなを笑い転げさせていた。彼は死に近づいていたかもしれないが、そのことが彼のユーモアのセンスに打ち勝つことを許さなかったのだ」。
ジョージは昼食が終わるとスタテン・アイランド大学病院で治療を受けるために席を立たなければならなかったが、ポールはジョージが戻るまで待つと言ったという。
ジョージは13歳の時にポールと出会った。
ジョージは語っていた「ポールもぼくも同じバスに乗り、同じ学校の制服を着て、リバプール・インスティテュートから家に帰っていた。ぼくは彼がトランペットを持っているのに気付いて、彼はぼくがギターを持っているのに気付いた。それで仲良くなったのさ」。
そして、ポールは常に彼より9カ月年上で、これだけ年月が経っても、やっぱりポールは9カ月年上なんだよ!などと口にしていたジョージだが、ポールにとってもジョージはかわいい弟分だったのだろう、彼のことを「my little baby brother」と呼んでいた。
そんなジョージとポールは、ビートルズの武者修行時代ともいえるハンブルクでの若かりし日々を回想したり、ビートルマニア最高潮の時代を振り返ったり、ビートルズ時代のドラッグや瞑想の体験なども話題にするなど、話は尽きなかった。
彼らの思い出話のクライマックスは、ジョージがハンブルク時代に「みんな」の前で10代のブロンド女性を相手に初体験をした回想だった。彼らは大いに笑い合った。
「ぼくの初体験はハンブルクだった―ポールとジョン(・レノン)とピート・ベストと、みんなが見ている中でね。ぼくら蚕棚で寝てただろ。シーツにくるまってたから実際には何も見えないわけだけど、終わったらみんなから拍手喝采だったよ。とにかく、やってる間はみんな静かにしてくれてたわけだ」(『ザ・ビートルズ アンソロジー』)。
ポールはジョージと手を取り合ったという。ポールは言った「男同士で奇妙だけど。どんなに友情が厚くとも手を握り合ったりはしないだろう。リバプール風ではないかもしれない。でも(ジョージと手を握り合ったことは)すばらしかった」。
ジョージはこのポール、リンゴとの再会の17日後、11月29日、この世を去った。
そして、ポールの男気を示すエピソードがある。
ジョージは、他の多くの有名人と同様に、亡くなる直前の日々に帰る家がないという問題に直面していた。英国の邸宅フライアー・パークではファンが多数押しかけてくることが予想されたし、ハワイのマウイ島の別荘には移動がきつすぎた。
そこで、セレブ専門の警備保障コンサルタント、ギャビン・ディー・ベッカーと契約し、誰にも邪魔されることなく家族に最後を看取ってもらえる、隔離された場所への移動を依頼した。そして、ディー・ベッカーは、ジョージはロサンゼルスのコールドウォーター・キャニオン1971番地で死去したと発表した。だが、この住所は実在しなかったのだ。
ポールのスポークスマンは一旦は否定したが、ポール公認のバイオグラフィー、フィリップ・ノーマン著『ザ・ライフ』(角川書店)は次のように書いている。
「ジョージは実際のところポールが新たに取得したビバリー・ヒルズ、ヘザー・ロードの邸宅で死去したのだった。昔と同じようにしたのだろう。リバプール・インスティテュートで彼らが校友だったころ、ポールはよく彼に言ったものだ。『うちに寄っていかないか?』」
(文・桑原亘之介)