1781年に生地ザルツブルクからウィーンへ移った古典派の天才モーツァルトは、当初華々しく活躍したものの、深みを増す音楽と逆行して徐々に人気が下がり、借金もかさんでいった。
今回ご紹介するのは、そうした深刻化した時期の作品を集めた「モーツァルト エクスタシー&アビス」である。タイトルを直訳すると「恍惚(こうこつ)と深淵」だが、アビス(Abyss)には「淵、奈落の底」の意味もあるので、そのニュアンスも込められているかもしれない。
企画&メイン演奏者は、1970年スウェーデン生まれのクラリネット奏者マルティン・フレスト。多彩な活動を行っている世界屈指の名手で、本作はスウェーデン室内管弦楽団で振った(2曲でクラリネットを披露)、指揮者としてのデビュー盤である。
全体は2枚組。1枚目には1789年に財政難を打開すべく行った演奏旅行におけるライプツィヒ公演のプログラムが、2枚目には亡くなる年の1791年8~9月に行ったプラハ旅行に関連する作品がそれぞれ収録されている。すなわち通常とは異なる視点で構成されたアルバムだ。
1枚目は交響曲第41番「ジュピター」で開始。引き締まった音色で活力みなぎる音楽が展開され、有名な第4楽章の力強い絡み合いが耳を奪う。次のコンサート・アリア「あなたのことを忘れろと?」では、スウェーデンのソプラノ歌手イーリン・ロムブがドラマチックな歌唱を聴かせる。珍しく用いられたピアノも効果的だ。最後はピアノ協奏曲第25番。前曲と本曲では、フランスの精鋭ピアニスト、リュカ・ドゥバルグが、明確さと滑らかを併せ持つソロを奏でている。特にこの曲は、バックともども、後のベートーベンに通じる堂々とした音楽に交錯する孤独感や翳(かげ)りが印象を深める。
2枚目最初の交響曲第38番「プラハ」では、普段イメージされる愉悦感以上に強調された力感やシリアスな表現がインパクトを与える。2曲目は歌劇「皇帝ティートの慈悲」のアリア「行こう、だが愛しい人よ」。モーツァルトに影響を与えた名手シュタードラー考案のバセット・クラリネット(通常より低音域が広い)が用いられ、やはりスウェーデンのメゾ・ソプラノ歌手アン・ハレンベリの表情豊かな歌唱と絶妙な綾(あや)をなしていく。最後はクラリネット協奏曲。この希代の名作が、前曲に続くフレストのバセット・クラリネット独奏によって、透明な美しさを湛(たた)えながら表現される。第2楽章の澄んだ哀しみ、第3楽章の終焉(しゅうえん)へ向かう侘びしい愉悦…、清澄な諦念を感じさせる演奏が胸に染みる。
これは、モーツァルトの音楽を新たな角度で味わえる、示唆と刺激に富んだアルバムだ。
【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No.33&34より転載】
柴田克彦(しばた・かつひこ)/音楽ライター、評論家。雑誌、コンサート・プログラム、CDブックレットなどへの寄稿のほか、講演や講座も受け持つ。著書に「山本直純と小澤征爾」(朝日新書)、「1曲1分でわかる!吹奏楽編曲されているクラシック名曲集」(音楽之友社)。