米国人ジャーナリスト、ジェームズ・フォーリー氏が「イスラム国」として知られる過激派組織IS(ダーイシュ)により処刑された事件で、2014年8月20日付英ガーディアン電子版は、実行犯は「ビートルズ」と人質たちから呼ばれていた英国人戦闘員トリオの一人である可能性があると報じた。
シリア北部で、外国人の人質を見張る役割をしていた3人の英国人戦闘員のニックネームが「ビートルズ」だったというのだ。その3人組は伝えられるところによると、人質たちを殴る(beat)など、もっとも残酷だったという。
その3人のうちのリーダー格の男がフォーリー氏を処刑したのだが、その男はビートルズの元メンバー、ジョン・レノンにかけて「ジハーディ・ジョン」と呼ばれていた。湯川遥菜さんと後藤健二さんを斬首したのも彼と見られている。同容疑者は、英国育ちのクウェート系移民の本名モハマド・エンワジであったことが後に判明している(ロバート・バーカイク著「ジハーディ・ジョンの生涯」文藝春秋)。
2014年9月5日付ワシントン・ポスト電子版はリンゴ・スターが次のように語ったと伝えている。「残忍な戦闘員たちを、平和を広めたファブ・フォーと同一視するなんて、まったくもってナンセンスだ」、「彼ら(ISの戦闘員)がやっていることは、ビートルズが体現していたすべてのことと正反対だ」。同時にリンゴは「でもぼくが出来ることは何もない」とあきらめにも似た言葉も漏らしている。
2014年6月、イスラム過激派の一組織がISの樹立を宣言。7世紀の預言者ムハンマドの時代を理想に掲げ、異教徒などに対して世界中で、「聖戦」とも訳されることのある「ジハード」の名を借りたテロ行為を組織的あるいはISの過激思想に共鳴した個人が繰り返し起こしているのが、現状だ。
「ジハード」という言葉は、もとは「目標に向かって努力すること」という意味だったが、イスラム教においては「神の道のために努力すること」を表し、「すべてのムスリム(イスラム教徒)が負う義務」となっている(国枝昌樹著「イスラム国の正体」朝日新書)。
「イスラーム国の衝撃」(文春新書)の著者である池内恵氏は「ジハードに立ち上がることを個々人の義務とする場合もある。現に目の前に異教徒の軍勢が現れて戦線が開かれている場合や、また一国あるいは究極的にはイスラーム世界全体が異教徒の支配下に置かれて、イスラーム教が壊滅の危機にひんしているような場合である」という。
そして「ジハード主義者は、イスラーム教徒が支配権を失った、イスラーム法的にはあってはならない状況下でなおも国家がジハードを行わず、それどころか国民にジハードの実践を禁止したり妨げたりしていることは違法行為である、と考える」と池内氏は言う。
ISの主張や「ジハード」にばかり目がいくとイスラム教というのは過激な思想ばかりを内包しているものだという誤解を生じかねない。「コーランを読む」(岩波書店)の著者である井筒俊彦氏は「神は人間に、その場その場で、いろいろと違った顔を見せ」、それは二種類に大別出来るという。井筒氏によれば、「慈悲ぶかい」、「慈愛あまねき」、「愛する」、「正しく導いてくださる」、「やさしい」といった系統の神の名前がある一方、「罰の烈しい」、「復讐者」とか「最後の審判の日の主宰者」といった厳しい系統の神の名前の二つの顔を持つのがアッラーという唯一絶対の神だというのだ。
ISはもっぱら後者の「厳しい」顔で知られるのだが、統治している地域では「善政」を敷くなど前者の「やさしい」顔も見せているともいう。池内氏は、ISが発する言説は、「何かオリジナルな思想を主張することが目的なのではない。自らの権力奪取と支配を宗教的に正当化するために、イスラーム教徒が一般的に信じているか、あるいは強く反対はできない、基本的な教義体系から要素を自由自在に緩用してくる」という。
ジハード主義者は自爆テロを実行する。しかし、本来イスラム教では自殺を禁止しています、と「イスラム国の野望」(幻冬舎新書)の著者である高橋和夫氏はいう。
本来、イスラム教などの一神教というのは寛容なのだと作家の佐藤優氏は「サバイバル宗教論」(文春新書)の中で述べている。「それは無関心に基づく寛容です。神様と自分との関係において自分だけが救われればいいと考えているわけですから。他人が何を信じているかということには関心が向かないのです」。
自分以外にあまりに「無関心」になってしまうということで、他人の痛みや想いにも無関心になってしまうおそれはないだろうか。「愛」の反対語が必ずしも「憎しみ」ではなく「無関心」であるという指摘もあるではないか。
IS内で「ビートルズ」という呼称が使われていたということは、イスラム世界でビートルズが広く聞かれてきたということを必ずしも意味しない。
コーランにも預言者伝承でも音楽に関しては直接の言及はないという。
だが、「後代の議論の中で、イスラームでは音楽は大多数の学派の学者によって禁止事項とされるようになりました。その禁止理由は、イスラームで禁じられた行為に近づかないようにするための予防策です。つまり、音楽に熱中することによってイスラームに定められた行うべき義務行為を失念することになったり、その場でイスラームで禁じられたものの飲食や禁じられた行為を誘惑されたりすることが起こるからと、考えられています」と日本ムスリム協会はいう。「しかし、イスラームの教えに反するものを含んでいなければ、許されるとする見解もあります」
そういったイスラム世界におけるビートルズの影響については「それぞれの国の歴史に大きく左右される」とリバプールのホープ大大学院で修士号が取得出来るビートルズ研究のコースで講義をする上級教員のマイク・ブロッケン氏は指摘する。「例えば、インドネシアにはとても強いビートルズ・ファンの基盤がある」という。
(文・桑原 亘之介)
桑原亘之介
kuwabara.konosuke
1963年 東京都生まれ。ビートルズを初めて聴き、ファンになってから40年近くになる。時が経っても彼らの歌たちの輝きは衰えるどころか、ますます光を放ち、人生の大きな支えであり続けている。誤解を恐れずにいえば、私にとってビートルズとは「宗教」のようなものなのである。それは、幸せなときも、辛く涙したいときでも、いつでも心にあり、人生の道標であり、指針であり、心のよりどころであり、目標であり続けているからだ。
本コラムは、ビートルズそして4人のビートルたちが宗教や神や信仰や真理や愛などについてどうとらえていたのかを考え、そこから何かを学べないかというささやかな試みである。時にはニュースなビートルズ、エッチなビートルズ?もお届けしたい。