ビートルズがメジャー・デビューする直前にドラマーを解雇されたピート・ベストは、多くの誹謗中傷と闘ってきた。ピートのドラムが下手だっただの、協調性がなかっただの、口数が少なかっただの、ハンサムで他のメンバーの嫉妬をかっていたなど数々の中傷が彼に浴びせられたのである。ピートを「5人目のビートルズ」とする人たちがいる一方で、ピートの存在意義すらなかったことにするような「歴史修正主義者」もいたのだ。
だが、その彼もようやく苦労が報われたと感じる日々が訪れているようだ。きっかけは、90年代半ばにビートルズがグループの歴史を自ら振り返るというアンソロジー・プロジェクトで、ピートがドラムを叩いていた作品が10曲採用されたことである。
アンソロジーにピートがドラムを演奏している曲が収録されたことで、「ぼくのドラムの腕が本当はどうだったのか、もっと皆がよく分かるようになった。その点では、ぼくはいつでも顔をあげて生きてきたし、(クビになった理由は)ドラムの腕ではなかったと言ってきた」とピートは語った(2012年8月17日付ハフィントン・ポスト電子版)。
ピートはさらに2011年夏には、リバプールの2つの通りが、それぞれ「ピート・ベスト・ドライブ」、「カスバ・クローズ」と名付けられる光栄に預かった。カスバとは、ピートの母モナが競馬で当てた賞金で買ったヘイマンズ・グリーンの邸宅の地下室のひとつを改造して作った「カスバ・コーヒー・クラブ」のことだ。
カスバは1958年夏にオープンすると若者たちの溜まり場となり、オープニング・アクトを務めたのが、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンと臨時のギタリストのケン・ブラウンから成る「クオリーメン」だったのだ。
ピートがビートルズに参加したのは60年8月のことだ。当時ビートルズの面倒を見ていた抜け目のない、ジャカランダというクラブのオーナーであるアラン・ウィリアムズが、彼らを初めてイギリス国外すなわち西ドイツのハンブルクへと送り出す契約を取り交わしたのだが、問題はドラマーのイスが空席だったことだ。そこで白羽の矢が立てられたのがピートだったというわけである。ポールからハンブルク行きの誘いの電話を受けたピートは、オーディションに受かり、「5人目のビートルズ」になった。
それから約2年、ピートは他のビートルたちとそれこそ寝食を共にする生活を送ることになる。ピートは、ビートルズの歴史を「クリーン」なものにしたがる人たちが顔をしかめるようなエピソードを山ほど知っているのである。それが、「ビートルズ正史」編纂者からピートが忌避された理由のひとつかもしれない。
例えば、ハンブルクの歓楽街にある教会に向かって歩いていた4人のシスターたちに建物の二階のバルコニーからジョンが放尿したという事件をピートは覚えている(ピート・ベスト、パトリック・ドンカスター共著「もう一人のビートルズ」CBS・ソニー出版)。ただ、ジョンが「洗礼してやる」と言ったかどうかは定かではない。
また、ビートルズのマネージャーだったブライアン・エプスタインから口説かれたエピソードもピートは披露した。ブラックプール方面へドライブに行った時、「ピート、きみと一晩ホテルに泊まりたいなんていったら困るかい? きみと一晩過ごしたい」と紳士的アプローチでピートに迫ったブライアンであったが、二人は性的関係を持つことはなかった。
ピートに解雇を告げたのは、そのブライアンだった。62年8月半ばのことだ。ブライアンは著書『ビートルズ神話 エプスタイン回想録』(新書館)に書いている。ビートルズのプロデューサーになる「ジョージ・マーティンがピートのドラミングがあまり気に入ってなかった」、ピートはビートルズのメンバーとしては「常識的すぎる」と他の3人は考えていた、ピートはジョンとは仲が良かったが、ジョージとポールにはあまり好かれていなかった、などなど、ピートが腹を立てるのももっともな内容であった。
のちにジョンはこの件を振り返って次のように述べている。「ピートをクビにする段になるとぼくら卑怯者でね。ブライアンにやらせたのだよ。だけどぼくらが面と向かって話していたら、よっぽど後味の悪いことになっていただろう。たぶん最後にはケンカになったね」(「ザ・ビートルズ・アンソロジー」リットーミュージック)。
ピートの代わりに入ったのがリンゴ・スターだ。そのこともピートにとっては衝撃だった。「おれにとってさらにショックだったのは、リンゴさえもがこの陰謀に加担していたことだ。この生涯忘れがたい日まで親友だと思っていた男が、いともあっさりおれを裏切るとは。リンゴとおれは、かなり前から友好を深めていた。出演するしないを問わず、キャバーンで一緒に昼食をとることもよくあった。ロリー・ストーム・アンド・ザ・ハリケーンズがカスバに出演する時は、おれの自室でワイワイやった仲だった」のにである。
ピートが落ち込んだことは想像に難くない。音楽業界に身を置きつづけたものの、心の傷は癒えず、60年代半ばにはガス自殺未遂を起こしてしまう。その後、パン工場で働き、60年代末にはリバプールの公務員試験に合格した(高尾栄司著「ビートルズになれなかった男」朝日新聞社)。約20年間、9時から5時まで働くという安定した生活を送ったあと、早期退職し、ミュージック・シーンにカムバックした。ツアーを行うとともに、2008年には『ヘイマンズ・グリーン』というアルバムを“ザ・ピート・ベスト・バンド”名義で発表、再びドラムスティックを握り、ビートを刻んでいる。
(文・桑原 亘之介)
桑原亘之介
kuwabara.konosuke
1963年 東京都生まれ。ビートルズを初めて聴き、ファンになってから40年近くになる。時が経っても彼らの歌たちの輝きは衰えるどころか、ますます光を放ち、人生の大きな支えであり続けている。誤解を恐れずにいえば、私にとってビートルズとは「宗教」のようなものなのである。それは、幸せなときも、辛く涙したいときでも、いつでも心にあり、人生の道標であり、指針であり、心のよりどころであり、目標であり続けているからだ。
本コラムは、ビートルズそして4人のビートルたちが宗教や神や信仰や真理や愛などについてどうとらえていたのかを考え、そこから何かを学べないかというささやかな試みである。時にはニュースなビートルズ、エッチなビートルズ?もお届けしたい。