「ぼくが育ったのはリバプールではなくハンブルクだ」、「ハンブルクで変わったのだ。あそこでぼくらは本当に成長した」―ジョン・レノン。
ドイツ北部の港湾都市ハンブルク。同国第二の都市である。ジョンの言葉ではないが、ビートルズはそこで一日8時間以上、時には12時間もの長時間にわたる演奏などさまざまな経験を積むとともに、彼らのトレードマークとなった「マッシュルーム・カット」や「襟なしスーツ」などを教えてくれる、かけがえのないドイツの友人たちと出会った。
その舞台は、腕に自信がありけんかっ早い各国の船員たち、怪しげで危険なやくざものたち、妖艶な娼婦らが夜な夜なうごめく「世界一罪深い街」といわれるザンクトパウリ地区のレーパーバーンにあるいくつかのクラブ、出演順に「インドラ・クラブ」、「カイザー・ケラー」、「トップ・テン・クラブ」そして「スター・クラブ」であった。
ビートルズ、当時はジョン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、スチュアート・サトクリフ、ピート・ベストの5人だった。彼らが初めてハンブルクの地を訪れ巡業を開始したのは1960年の8月半ばのことだ。スチュ20歳、ジョン19歳、ポールとピートが18歳、ジョージが一番若くて17歳だった。
ハンブルクで彼らはロリー・ストーム・アンド・ハリケーンズというバンドでプレイしていたリンゴ・スターと友人になり、一緒に演奏も度々したという。「ハンブルクの彼らは最高だったよ。本当によかった、素晴らしいロックだったから」とリンゴは振り返った。
ジョージは言う「恐ろしい数の曲を覚えないといけなかった。演奏時間がものすごく長いから何でもやったね」、「ハンブルクはまさにぼくらの修業時代だった。あれで、人前でプレイするコツを覚えたのだ」。ジョンに言わせると一番受けていたのが、ポールがボーカルを担当した、レイ・チャールズのリズム・アンド・ブルース曲「ホワッド・アイ・セイ」で、長い時にはその一曲だけで1時間半くらい続けて演奏していたという。
二軒目となったカイザー・ケラーで演奏していたある晩、恋人アストリット・キルヒヘアとけんかしたクラウス・フォアマンが店をたまたま訪れた。彼の目や耳に飛び込んできたやたらとワイルドなバンドがビートルズで、瞬く間に魅了されてしまった。彼はアストリットと友人のユルゲン・フォルマーを誘って再び店を訪れた。
彼らはビートルズと出会ったとたんに電流に打たれたように引かれあった。運命の始まりだ。ビートルたちにとって特にアストリットは当時22歳、まさに「憧れのお姉さん」のような存在となった。そして彼女はスチュと恋に落ちた。
当時17歳だったジョージは語る「アストリットはすごく素敵だった」、「レザー・パンツにビートル・ヘアは彼女のおかげなのだよ」。
この時代を描いた日本人による秀逸なノンフィクションがある。小松成美氏がアストリットに150時間にわたりインタビューしてまとめたという「アストリット・キルヒヘア ビートルズが愛した女」(角川書店)という作品だ。これはハンブルクでのビートルたちの姿を生き生きと描き出している青春群像物語とも呼べるものだ。
彼らは、アストリットら「エクシス」と呼ばれた美術家や美大生のグループのキスと抱擁の「挨拶」にまず驚かされた。だが、ジョンのからかいをよそに、スチュがクラウスやユルゲンとその挨拶を交わし始めた。すると「ジョージは声が漏れないように慌てて口元に手を当て、肩をすくめて、クスクス笑った。そして、突然、そばにいたアストリットに抱きついて両方の頬にブチュと音のするほどのキスをした」(同書)。それからジョージはアストリットを独り占めして抱擁とキスの挨拶を続け、店中を大笑いさせたのだった。
そしてビートルズを初めてカメラに収めた写真家がアストリットだった。写真を撮らせてほしいという彼女の申し出に彼らは浮き立った。プロの写真家に撮ってもらうということで、ジョージは狂喜して店中をぴょんぴょんと跳ね回ったという。ジョンだけが皮肉っぽかった。どうせ彼女が撮りたいのは薄汚れた労働者なのだろう、と。
しかし、撮影現場ではジョンはちょっと違った。彼は車から降りたアストリットが持っていこうとした鉄製の重い三脚を奪い取ると、黙ってジョージ、ポール、スチュ、ピートの後ろを歩きだしたという。ジョンの「ぶっきらぼうな優しさ」に彼女は驚いた。
半日のフォトセッションが終わるとアストリットは彼らを家に招待した。約束があったピート以外の4人はすぐに応じた。ジョンは彼女の母ニールサにドイツ語で挨拶、ポールとジョージは子供のようにはしゃぎ、用意してくれた「ご馳走」にジョージが誰よりも先に飛びつき、ついには両手でサンドイッチをつかんで食べ始めた。
英語が上達していったアストリット。それでビートルズ5人のことをこれまで以上によく知るようになる。例えば、ジョンがひどい近眼であることなど。「『眼鏡をかけるくらいなら車にひかれて死んだほうがましだね』と格好ばかり気にするジョンが、ジョージよりも幼く見えて、心からかわいいと思っていた」と彼女は言う(同書)。
アストリットとスチュは愛しあい、関係を深めていった。しかし、彼はリバプールで地元の不良に襲われて頭を蹴られた後遺症からひどい頭痛に苦しめられ、ついに62年4月10日、「脳内出血」で突然亡くなってしまった。享年21歳。4月も終わるころ、落ち込むアストリットをジョンが一人で訪ねた。彼は彼女に言った「いいか、スチュは死んでこの世にいないのだ! 君は決めなくちゃいけない、スチュを追いかけて死ぬのか、ここで立ち直って生きていくのか」。ジョン自身が親友スチュを失って深い悲しみにあったにもかかわらず、彼女を自分自身で立ち直って歩いていくよう激しい言葉で励ました。
62年秋、英国でメジャー・デビューしたビートルズ。ドラマーはピートからリンゴに代わっていた。その年の暮れ、ビートルズは5回目にして最後となるハンブルク巡業を行った。スター・クラブで録音された音源が、権利関係のすったもんだの末、発売され、彼らのエネルギッシュな演奏をうかがい知ることができる貴重な資料となっている。
(文・桑原 亘之介)
桑原亘之介
kuwabara.konosuke
1963年 東京都生まれ。ビートルズを初めて聴き、ファンになってから40年近くになる。時が経っても彼らの歌たちの輝きは衰えるどころか、ますます光を放ち、人生の大きな支えであり続けている。誤解を恐れずにいえば、私にとってビートルズとは「宗教」のようなものなのである。それは、幸せなときも、辛く涙したいときでも、いつでも心にあり、人生の道標であり、指針であり、心のよりどころであり、目標であり続けているからだ。
本コラムは、ビートルズそして4人のビートルたちが宗教や神や信仰や真理や愛などについてどうとらえていたのかを考え、そこから何かを学べないかというささやかな試みである。時にはニュースなビートルズ、エッチなビートルズ?もお届けしたい。