ポール・マッカートニーに「アーリー・デイズ」という2013年の作品がある。この曲で彼は無名だった若かりし頃を振り返るとともに、ビートルズの作品をあれこれ分析したがるファンや評論家などを念頭に次のように歌っている。「今じゃ誰もが皆それぞれの意見を持っているようだ。誰がこれをしたとか誰があれをしたとか。でもぼくに言わせりゃ、彼らがどうして思いだせるというのだろうか、彼らはそこにいなかったのに」。
ジョン・レノンは生前、ビートルズの作品においての彼の貢献やポールの役割をはっきりさせようとしていた。それは彼の職人気質からきていたのかもしれない。特に彼が80年12月に亡くなる数か月前に行われたプレイボーイ誌とのインタビューでは、どの作品のどこの部分が彼のものでどこがポールの貢献であるか、突き詰めて答えようとしていた。
ビートルズの作品のほとんどは「レノン=マッカートニー」のクレジットである。これは少年時代に一緒に歌を作り始めた2人が取り決めた「約束事」だった。そのクレジットのある作品の中身を分析しようとしたジョンの回想は思わぬ波紋を呼ぶことになった。ポールの記憶と食い違う作品が2曲出てきたからである。
その2作品とは、どちらも歌詞、メロディーともに評価の高いビートルズ中期の名曲―「イン・マイ・ライフ」と「エリナー・リグビー」である。
ジョンは70年のインタビューでは、サリー州のウェイブリッジにあるケンウッドの家の2階で「イン・マイ・ライフ」は作ったという。「初めに詞をつくり、そのあとで、自分で歌ってメロディーをつけたものです」。(「レノン・リメンバーズ」草思社)。
それから10年後、80年のインタビューでは、ジョンは同曲の発想が浮かんだのは、リバプールのメンラブ・アベニューの彼がミミおばさんと住んでいた家から町へ行くのに乗ったバスの中でだと振り返る。思いつくだけの場所の名前をあげて全部書き留めていったのだが、それは退屈極まる代物だったので、それをとりあえず放っておき、「ひっくりかえっていたら、昔の友だちや恋人たちについてのあの歌詞が浮かんできたのだ。真ん中の部分はポールが手伝ってくれたよ」(「ジョン・レノンPLAYBOYインタビュー」集英社)。
ポールは回想した。曲作りのためにジョンの家に赴いたら、ジョンはすてきな歌詞の書き出し、「生涯忘れられない場所がある」(There are places I remember all my life)―を用意していた、と語る。そして「ぼく(ポール)は彼に言った『曲が出来てないなら、ぼくにやらせてくれ』。そして階段の途中のメロトロンに向かって、頭にスモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズを浮かべて曲を書いた」、「メロディーは全部ぼくが書いた覚えがある」(「メニ―・イヤーズ・フロム・ナウ」ロッキング・オン社)。
ポールは続ける。「そして部屋に戻って『出来た!いい曲だと思う。どうかな?』とジョンに聞かせたら、『いいね』と言うので、そこからそのメロディーを使って残りのヴァ―スを2人で埋めていったのだ」。「この曲はジョンのインスピレーションを基に、ぼくのメロディーとギターリフで出来た曲だ。2人で仕上げたすてきな曲をジョンが歌ったわけだ」。
一方、「エリナー・リグビー」についての2人の食い違いはより大きい。ジョンは「最初の一行はポールので、残りは基本的にぼく。ポールは、結婚式の最中の教会にいるエリナー・リグビーというメイン・テーマだけを持っていた」という。
「ポールはこのテーマが手元にあって、手助けが必要なことを知っていながら、ぼくに詞をつけてくれと頼まなかった。そのかわりに、あの時『オイ、君たち、詞を書きあげちゃってくれよ』とぼくらに声をかけたのだ」とジョンは言う。
差し迫って一曲作らなければならない状況だったので、そこにあったテーブルに一緒にいたロードマネジャーのマル・エヴァンズとニール・アスピナールと曲を書いたのだ、とジョンは語った。「それでも一部は(ポールと)一緒に書いたのだよ。彼は中間のところが書けなかった。ほら『Ah, look at all the lonely people』ってとこさ。ポールとジョージ・ハリスンとぼくとでいろいろこねくり回している時、ぼくはトイレに行こうと思った。その時、誰かがそのフレーズを口にした。ぼくはふりむいて『それだ!』って叫んだのだ」。
かたやポールの意見はどうだろうか。「エリナー・リグビー」はポールがロンドンに居を移した後、恋人だったジェーン・アッシャーの家の地下の音楽室でピアノに向かって書いた曲だという。そして彼は自宅で歌詞をいじった。「ぶつぶつ言っているうちに、こんな言葉が出来上がった。『結婚式の終わった教会で米粒を拾う』。意識の流れではないけれど、この言葉が流れ出て、自然に出来上がっていた」。「結婚できそうにない、近所のオールドミスという設定をぼくは選んだ。それで、心寂しい人々の歌になった」という。
「アイデアをまとめて、メロディーとコードをつけて、ジョンに見せた。歌詞は完成してなかったから、2人で作ったよ」、「ジョンがいくつか歌詞を手伝ってくれたけれど、8対2の割合でぼくが書いた作品だ」とポールは主張した。
論争は続いている。でもいいではないか、どちらにしても素晴らしい作品をレノン=マッカートニーは残してくれたのだから。ポールの言葉で締めくくろう。「ぼくらが書いたすべての曲の中で、2人の記憶が食い違うものがたった2曲だなんて、喜ばしいことだよ」。
(文・桑原 亘之介)
桑原亘之介
kuwabara.konosuke
1963年 東京都生まれ。ビートルズを初めて聴き、ファンになってから40年近くになる。時が経っても彼らの歌たちの輝きは衰えるどころか、ますます光を放ち、人生の大きな支えであり続けている。誤解を恐れずにいえば、私にとってビートルズとは「宗教」のようなものなのである。それは、幸せなときも、辛く涙したいときでも、いつでも心にあり、人生の道標であり、指針であり、心のよりどころであり、目標であり続けているからだ。
本コラムは、ビートルズそして4人のビートルたちが宗教や神や信仰や真理や愛などについてどうとらえていたのかを考え、そこから何かを学べないかというささやかな試みである。時にはニュースなビートルズ、エッチなビートルズ?もお届けしたい。