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四谷でブラミルク 畑中三応子 食文化研究家 連載「口福の源」

 地域に眠るミルク史跡を巡り歩く「ブラミルク」、5月は東京の乳業史を語る上で欠かせない「四谷軒」跡を訪ねた。

 四谷軒は1878(明治11)年、現在のJR四ツ谷駅前の「コモレ四谷」の場所に越前国(福井県)出身の士族、佐々倉兄弟が創業した牧場兼牛乳店である。場所を移しながら明治・大正・昭和の東京酪農界を牽引(けんいん)して1985年、惜しまれながら百余年の歴史に幕を下ろした。

 高さ145メートルの高層棟がそびえ立つコモレ四谷だが、敷地内には武蔵野の雑木林をイメージした大きな広場があり、牧場だった当時の姿が自然にイメージできた。すぐ近くには雪印メグミルクの本社があり、酪農との縁を感じさせる。

 都市史を研究する金谷匡高(かなや・まさたか)さん、乳業史が専門の矢澤好幸さんによる事前のレクチャーは驚くことが多く「へえ」の連続。明治初期、四谷・市谷周辺には牧場がたくさん開設されたそうだ。

 この辺りには江戸時代、中上級の武士が暮らす屋敷が立ち並んでいたが、明治維新で空き家になった。屋敷内には牛を放牧するのにうってつけの前庭があり、井戸を備えて水が豊富だったため、そのまま牧場に転用できた。

 1874(明治7)年、市谷に開校した陸軍士官学校の存在も大きかった。初代陸軍軍医総監の松本良順は、熱烈な牛乳奨励のオピニオンリーダー。学生の飲用を推進し、まとまった需要が生まれた。学校の近所には士官が兼業で経営する牧場もあったという。

 「花街の四谷荒木町でも需要があったはず」と金谷さん。たしかに流行に敏感な芸妓が、文明開化のシンボルだった牛乳をいち早く取り入れた可能性は高い。ちなみに松本良順は歌舞伎の人気女形を吉原遊郭に連れて行き、大勢の芸妓の前で牛乳を飲ませて味の良さをPRしたことでも知られる。牛乳普及のため、芸妓から客に牛乳のおいしさが伝わるのを狙ったのである。

 四谷周辺に住宅と商店が増えて牛の鳴き声と臭いが問題になり、1887(明治20)年に四谷軒は花園町(現新宿1丁目)に移転。今度は新宿御苑周辺に多くの牧場が集まるようになった。芥川龍之介の実父が経営した耕牧舎はその一つだ。現在はバーがひしめく新宿2丁目にあり「牛やの原」と呼ばれた。その頃の新宿はのどかな田園地帯。今の歌舞伎町一帯は肥前藩主だった大村伯爵の所有地で、大木がうっそうと茂り「大村の山」と呼ばれた。信じられないような光景である。

 やがて新宿の都市化に伴い、杉並区向井町を経て昭和初期に世田谷の赤堤へ移転。約1万3千平方メートルの敷地にサイロ6基を持ち、乳牛120頭がいた赤堤の四谷軒は、都会の牧場として人気が高く、見学者が絶えなかった。1970年代から高級住宅街と呼ばれるようになった世田谷で、バブル経済に向かう85年までよく持ちこたえたものだ。

【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No.23からの転載】